Coffee Beans Kurochamame

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おいしさの起源 ⓺

ホームページひとつ開き始めるまで10分以上かかる状態ですので、ここからはウィンドウズでお送りします。というのは見る方にとってはどうでもいいことでしょうが。マックはバックグラウンドでDL}されるファイル容量がけた違いに多く、100倍くらいありそうなことがわかってきました。しかも止める方法さえない。延々と何か月もファイルをDLし続けてなお終わらないこともある様子です。まいった。

さて、おいしさの起源 4と5の内容がかぶっていて、下書きに戻して、整理しようとしたら、うまくいかないので、代わりに先に、6をアップして、後で整理することにします。

この客観的なおいしさと主観的なおいしさには決して交わることがない次元的なギャップがあります。一方で個人的な主観的なおいしささえも、当人の属する文化や言葉の影響を強く受けてもいる。だからこそ、時に切り分けが難しい。混同されやすい部分でもあります。

しかし、はっきり言えるのは、通常の体験の範囲ではけっして交わることのないべつじげんのものであるということ。少なくとも(家庭で料理するといった程度であっても)飲食にまじめにかかわろうとするなら、おそらく、そのことはしっかり理解しておく必要があります。

自分がいいと思うものを他人がいいと思うとはかぎらないという単純な事実は時に見過ごされがちです。しかし、自分の舌にいいかどうかという基準だけで考えていると、やはりある種の迷路、あるいは独りよがりな世界に迷い込んでしまうということでもあり、逆に自分がNGと思うものでも、本当に喜んでいただけるということもあり得るということなのです。

自分の味覚の前提条件となっている現体験のようなものをはっきり相対化できない限り、少なくとも相対化してゆく努力をしない限りは。

このことはお互いの味覚の違いで時にぶつかり合うことのある既婚者であればある程度体感的に理解されておられると思いますが、中には思ったことを率直に伝えられない方もいらっしゃると思いますから、なかなか本当の意味では分かり合えない部分かもしれません。

世間一般のおいしいには、原則的に口にしていいよ(毒がなくて、何らかの栄養なり、水分補給ができますよ)という程度の意味しかないこと。そして、自分の感じる、おいしいは、自分中では絶対に近いものであっても、他者と一致するとは限らないこと。むしろ一致しないことのほうが多いかもしれないということです。

 

おいしさの起源 ⑤ 

90%にも及ぶ空前の直帰率にやっと重い腰をあげるくろちゃまめ。あいかわらず、アクセスしてきてくださる方が何を求められているか、謎ですが。

さて、美味しいという言葉はもともとは人と共有することが目的にあるものであって、個別的な要素が希薄であるはずなのです。

おいしいということばはそれを共有する社会とともにある。

といえ、一人で飲むコーヒーに、思わず、おいしいと感じたり呟いたりすることがあるように、個人的な美味しさというのも、少なくとも、その個人については明白に存在します。

そして、それは少なくともそれはその個体にとっては、すなわち、本人にとってはかけがえのない実感であり、記憶です。その個体が失われると消えてしまうかもしれないはかないものであったとしても、その個人にとっては絶対的な価値を持つものです。

ただし、その、おいしいですら、目の前の食物やコーヒー単体に対するおいしいというよりは、過去体験した様々な味との比較や対称をもとにした、おいしいであることは改めて指摘しておきたいと思います。

初めて、アメリカの軍艦をみた日本人が、それを大きな船であるらしいという以上の認識しかできず、黒船と呼んだように。あるいは、太平洋の真っ只中にある未開の小さな島の住人が、初めて大きな船を目にした時、海の上に大きな山が突然現れたと感じてしまうように、純粋に目の前のものの、味を感じて、評価することは人間には原則無理かもしれないのです。初めて、見るもの、感じることを正確に捉えることは人間にはできない。

常に過去の記憶と比較しながら、物事を知覚しようとする、そのプロセスがあるかぎり、そして、そこに言葉が介在として存在している限り、当人の属する文化の影響を受けています。

その要素は、細かく言えば、両親をはじめとした血縁によってもたらされる要素(DNAおよび環境遺伝的なもの)、社会的文化的な要素、時代背景に左右されるものの3つです。

とはいえ、これらに影響されるつつも、その個人としての原体験が核となっている限りは、ごく個人的な、主観的なおいしさであることは、変わりないはずのものです。

では、他人と容易に共有できる、客観的なおいしさと、このいわば主観的なおいしさはまったくあいいれないものであるかというと、そうではないと、くろちゃまめは考えています。

その2つが1つになる、絶対的な次元が存在すると思っています。そして、そこに至るまでいくつかの段階が存在していると考えても良いのではないかと思っています。

 

 

おいしさの起源 ④

美味しさの広がりを3次元的、あるいは多次元的に表現しようとして論を進めると、ちょっと長くなりそうです。

かといって、途中を端折ってしまうと、ある一つの地点に収まってしまいます。

そこに至るまでに過程を順に追ってお話ししたいと思っていますが、相当長くなるので、最初に結論だけお話ししておこうかと思います。

おいしさには最低、2つないし3つのベクトル、または次元があり得ると思っています。

一つは、仲間と共有することが目的の次元。それは極論すればただ、栄養になればなんでもいいというところに収まりかねないものの、毒と有益になるものを見分けるという意味ではとても大事なところではあります。特に毒は口にした時点で一巻の終わりということもあり得るからです。

2つ目は、その個人、あるいは個体にとってどちらかというと特有のオリジナルの体験によって裏付けられるもの。そして、その背景には、DNAや環境遺伝により血縁関係で伝達されるうるもの、そして、社会や取り巻く環境の影響、文化的影響を受けやすい部分、時代の空気に影響されるものなどがあります。

1つ目はごく単純なひろがりのある次元、2つ目はどちらかというと個人的なものになります。まったく同じDNAを持っていると言い切れる人間がそういないように(双子でも厳密に同じではあり得ない)味覚の土台となる肉体に差異があれば同じものを感じているとは言い切れないという意味では簡単には共有し難いものかもしれないものです。そのギャップを言葉を操ることで、人間は埋めようとしているのかもしれません。

ただ、この2つはばらばらなものでなく、究極に2つが1つになる次元があると思うのです。

その、おいしさにおける統一理論、ないし、コーヒーにおける相対性理論の行き着く先をたどってみようかと思っています。

森羅万象、すべての生物に普遍的でなおかつすべからくの人類にとっても意義のあること。そういった世界を感じさせる、美味しさというものがあるということを考えてゆきたいのです。

おいしさの起源 ③ おいしい料理が売れるのではなくて・・・

売れているのがおいしい料理である。

これは何を隠そう、サイゼリヤの創業者の言葉です。

一見、大してこだわりのない大衆向けのレストランの経営理念と受け取られがちですが、この言葉には確かに真理の一端が表現されているように思います。

多くの人に受け入れられているものはおいしい

いや、より多くの人に受け入れられるものこそが、おいしい料理なのである

たしかに種の保存のためにはより多くの仲間にとって有益な栄養源を見つけて共有するのはもっとも合理的な選択です。

この点、より多くの人と共有できるクォリティを持つものが、よりおいしいと認知されるのは、ごく自然なことであり、逆らえない生物としての本能みたいなものです。

これが第一の、平面的な広がりのある、おいしさです。

実際、サイゼリヤの料理はチーズをはじめとした素材一つとっても、かんたんに安価では手に入りにくそうなクオリティである上に、サラダなど、ちょっとびっくりするくらいの量で提供されることもあって、それなりに食にこだわりのある方にもそこそこ受け入れられるであろう質と量を兼ね備えていいる上に、味のほうもイタリア通を自負する向きや当のイタリア人にも一定の評価を受けているようです。

サラダ一つとっても、自分の場合、たとえば水菜は苦手なので、あまりたくさんあると困ってしまうのですが、それでも、まるでとれたてのようなみずみずしい農薬の香りのしないその他の野菜と一緒に出されると、その量に慌てながらも、何とか食べてしまいます。

ちょっとかさまししているよなあと思いつつ、お値段を考えると、とても文句は言えないなあと思うわけです。もちろん、どんなに繁盛しても、サイゼリヤが究極のイタリアンとして通用するわけではないにせよ。

この広がりは、やはり、おいしさの最重要要素のひとつであると言い切っていいほど、大きいのはまちがいないことでしょう。

 

 

おいしさの起源②   

 

さて、ミクロの微生物の世界から、マクロの高等生物の世界まで。

基本生物はある一定のまとまりとして生命活動するのが普通かと思います。

細菌でさえ、コロニーを形成するように、です。

特に動物のように、太陽からエネルギーを取り出す仕組みを持てない。非生産者の立場にある生物の場合、より顕著にエネルギーの元となる。栄養源を見つけたとき、やったーとなって、仲間と共有しようとする。この感覚は生命維持のための根源的な仕組みと直結していて、もしあえて人間同士のことばに翻訳するなら、おいしい〇〇みつけたー、これおいしいね。に相当するのではないかと思います。

ただし、これ、ミツバチの世界であっても、単純に、栄養がある、助かった。生き延びられるよ、といった意味にとどまるものであるかというと、くろちゃまめ的にはそうではないと思っています。

だって、ミツバチは、巣を形成する時点で、自分たちが消費してもありあまるレベルの蜜をその巣の中に溜め込んでいるわけです。ですから、働き蜂が八の字のダンスを囲んで群れているのは、美味しい蜜がめっかった!これでしばらく生活ができる、とか生き延びられるというより、もう、新しい蜜の園が見つかった事自体に興奮しているか、花畑にでかけて蜜を集めるのが楽しみで仕方がないという感覚に近いかもしれません。

ここで、おいしさには最低、2つのベクトルがあることを確認したいと思います。

1つは、仲間と共有して、行こうとする平面的な広がりのベクトル。

もう一つは、もっと生命としての存在の根源的に回帰してゆくような立体的な深みのあるベクトルです。

本日のディスカバリー

あいかわらず、250g入れると20gないし30gほどこぼれてきます。

そこで230g入れると、こぼれてきたのは2粒。

225gでやっとゼロ。

二分の一ポンド焙煎機ですね。これだとミディアムでも焼き上がりで200gは いくらなんでも厳しい。なんとか250gでスムーズにいれるとぜんぜんいいのですが、まだまだ試行錯誤中です。

予熱については、75分間以上かけてもほとんど結果は変わらず。3バッチからやっと重い腰が上がった感じになるので、これも3キロと同じで豆が入っていないとフロントパネル部分を中心に温度が上がりにくい部分があるのでしょう。

以前、シリカみたいなものを豆の代わりに予熱中に入れることを検討したこともあるのですが、かけらが異物として混入するリスクを考えると実行は難しい。

そこで、トータル25分から30分以内で、効率よく予熱できる条件を探すことにしました。

40分でも50分でも悪くはないのですが、2バッチ分の時間として考えています。これに最初の2バッチ分は、もうその日の調子を見るためのアイドリングと割り切って、3バッチ目でバッチリ行く条件を詰めて、あとは可能な限り、2バッチ目、1バッチ目も有効利用できるようにすることにします。

SDGsなんて言われている世の中に逆行していますが。それが無理だった場合、最初から捨て豆と思って焙煎するしかなくなってしまいます。

4バッチ以降をどうやって安定させるか。こちらは、こちらで、課題ですが、時間をあけさえすれば、なんとかなるのは、間違いないです。

 

その後のディスカバリー

只今、予熱の条件やら試してみています。

今の所、200gまではOKですが、250g突っ込むとドラムと前蓋の間に沢山豆が詰まって、ついには蓋を押し上げてしまい、豆が出てきてしまいます。

メーカー公称焙煎量はやはりサバを読んでいるのか、それともこの個体が怪しいのか。

昨日はベストな予熱の条件を悩んでいるうちに、時間が立ってしまい、とうとう延々240分予熱後に焙煎してみましたが、これでも最初の100gのバッチよりも、3バッチ目くらいからが何となく、しっくり来る感じがありまして、焙煎する側のアイドリングの問題なのか、まだよくわかりませんが、多分、1時間半以上予熱する意味はあまりなさそうです。

やはり豆を入れて回すのが一番と思いますが、もう少し時間的に短縮できないとあまりに非効率しかし、仕上がりで200g焼けないとすると、フジ、狙ってますかね。

 

おいしさの起源 ①

言葉との関係で人間にとってのおいしいについて考察してゆこうとすると、あまりに深い話になってしまって、コーヒーの美味しさに辿り着く前に、さまざまな文化論など寄り道がたくさん生じて、収集がつかなくなりそうですので、すこし話を戻して、再び、地上に生きる生物の一員としての美味しいの意味について考えてみたいと思います。

ところで新しい花畑を見つけたミツバチが巣に帰ってから、どうやって仲間にその情報を伝えているか。ご存知の方も多いかと思います。

今では中学高校の教科書にも記載されているみつばちの8の字ダンス。

カール・フォン・フリッシュという方が20世紀後半に発見したことになっています。

しかし日本語で蜂をハチと呼ぶのは、単なる偶然かもしれませんが、それでも、おそらく、古来の日本人もその行動に気がついていたに違いありません。

そして、きちんと記録したり伝承されることはなくても、あるいは、その意味を正確に解読するまでには至らずとも。新しい花畑を見つけたハチが巣に戻ってダンスをしているようすをみて、たとえ、新しい蜜の園を見つけて喜んでいる、といった程度の受け止め方であったとしても、そこに単なる踊り以上の意味があることを理解していたのではないかという気がします。

 日本人の祭りのスタイルの起源がそこにあってもおかしくないとさえくろちゃまめは思っています。

さて、このみつばちのダンス。確かにカールが明らかにしたように、花のある場所の方位と距離の情報を交換しているわけですが、果たしてそれだけの意味で終わるものでしょうか。

新しい花畑に到着して、触れた花の花粉や匂いをまとった個体が巣の真ん中でダンスをする。その後を半ば興奮して仲間たちがくっついて回る。その様子は、日本社会でいえば、たとえば祭りの場で神輿担いで回っている人の周りをとり取り囲んで歓声をあげているようなものです。

そこに生じているエネルギーの交流のようなもの。昆虫の世界に人間のような言葉がないとはいえ、感情のほとばしりにも近い、ある種のエネルギーの交流のようなものはあってもおかしくはありません。

それをあえて人間の世界のことばに翻訳すれば、たとえばこういう感じかもしれません。

おーい、おいしい蜜がいっぱいのアカシアの花があったで、今の太陽から3時の方向でこっち、距離は300mもないで。それも昨日今日、咲き始めたばかりの、フレッシュなやつや、みんなでいこうや! とか。

関西風の表現が適切かどうかわかりませんが、一言で言えば、おいしい花、みーつけた!という感じです。

ダンパーの役割

火力とのバランス次第とはいえ、ダンパーをぎりぎり絞った条件のままで固定で焙煎していると、せいぜい飲めてもミディアムまでで、ハイ以降はとても飲めないという感じになりがち。

逆にダンパーを少し開け気味であれば、ミディアムでは物足りなくて、もう少し深く煎らないといけないかなと感じたり。

ただし、開けすぎると、焙煎に余計な火力が必要になったり、煎っても煎っても独特の辛みのような癖が出たりして、うまくいきません。どんなに深く煎っても酸味が残るような感じがしたり、必要以上に長時間焙煎になったり、豆の特徴は当然のように失われます。

直火の場合、この変化が大きく出やすいような気が何となくしています。

風量をコントロールできるともっといいかもしれないのですが、ダンパーはやはりせっかくあるものを使ったほうがいい、というより、富士の場合、使わないと、どうしても、うまくまとまりにくい部分が出てきやすいように思います。

とはいっても、完璧に火力が調整できて、ベースの風量が適切であって、なおかつしっかりとした煙突がついていれば、やはりダンパー操作は不要といえるケースもあるかもしれません。

排気温が上昇するにつれて自然にドラフト効果も強まるので、煙突なしでダンパー操作をしたのと同等以上の効果が得られる可能性は確かにあります。

きちんとセッティングができていれば、これはこれで楽ちんでいいと思います。

名古屋のみずを試す②

送っていただいた名古屋の水道水のペットボトル。

水単体としての良さもさることながら、コーヒーにも合うようです。

八ヶ岳周辺の水とはまた違うし、東京郊外や関東の条件のいいところとか福岡市近辺の名水クラスの水とも、そして、くろちゃまめの実家周辺の水ともまたまた違う。

これで高評価をいただいているドリップバッグ、それも一番気に入っていただいているものを入れてみましたら。

あ、これ本当に同じ豆なんだろうかと。

スペシャルティ感がぐっとでてきて、こちらの水だと出やすい僅かな雑味や渋みは消え去って、優しい酸味に感じてしまいます。作成から時間が経っていて控えめになっているはずの香りもより強く出ます。

どうなっているんでしょう。

名古屋近辺にお住まいの方はうらやましいです。

まだまだ20リットルはあるのでいろいろ試してみようと思います。