ホームページひとつ開き始めるまで10分以上かかる状態ですので、ここからはウィンドウズでお送りします。というのは見る方にとってはどうでもいいことでしょうが。マックはバックグラウンドでDL}されるファイル容量がけた違いに多く、100倍くらいありそうなことがわかってきました。しかも止める方法さえない。延々と何か月もファイルをDLし続けてなお終わらないこともある様子です。まいった。
さて、おいしさの起源 4と5の内容がかぶっていて、下書きに戻して、整理しようとしたら、うまくいかないので、代わりに先に、6をアップして、後で整理することにします。
この客観的なおいしさと主観的なおいしさには決して交わることがない次元的なギャップがあります。一方で個人的な主観的なおいしささえも、当人の属する文化や言葉の影響を強く受けてもいる。だからこそ、時に切り分けが難しい。混同されやすい部分でもあります。
しかし、はっきり言えるのは、通常の体験の範囲ではけっして交わることのないべつじげんのものであるということ。少なくとも(家庭で料理するといった程度であっても)飲食にまじめにかかわろうとするなら、おそらく、そのことはしっかり理解しておく必要があります。
自分がいいと思うものを他人がいいと思うとはかぎらないという単純な事実は時に見過ごされがちです。しかし、自分の舌にいいかどうかという基準だけで考えていると、やはりある種の迷路、あるいは独りよがりな世界に迷い込んでしまうということでもあり、逆に自分がNGと思うものでも、本当に喜んでいただけるということもあり得るということなのです。
自分の味覚の前提条件となっている現体験のようなものをはっきり相対化できない限り、少なくとも相対化してゆく努力をしない限りは。
このことはお互いの味覚の違いで時にぶつかり合うことのある既婚者であればある程度体感的に理解されておられると思いますが、中には思ったことを率直に伝えられない方もいらっしゃると思いますから、なかなか本当の意味では分かり合えない部分かもしれません。
世間一般のおいしいには、原則的に口にしていいよ(毒がなくて、何らかの栄養なり、水分補給ができますよ)という程度の意味しかないこと。そして、自分の感じる、おいしいは、自分中では絶対に近いものであっても、他者と一致するとは限らないこと。むしろ一致しないことのほうが多いかもしれないということです。