The Coffee Roaster House

just around five pounds retreat

閑話休題 味覚が最後の感覚であることの意味するところ②

つまるところ、飲食自体が生命維持に絶対必要な活動であるとともに、リスクを伴う行為でもあることから、飲食においてはある種の安心感が絶対のベースとして必要ということになります。

そこさえクリアしていればほとんどの場合、一応といいますか、おいしいと思ってもらえる。特におなかがすいていたり、のどが渇いていて、他に飲むものがなければなおさらです。

一方で確かに、コーヒーについて言えば、嗜好品としての性質が影響するでしょう。

それはこういうことだと思います。脳は臓器としては体の一部であっても、どこか体を超越したところがあります。

脳というのは、安全、安心を求める以上に刺激に対して飢えている特異な精神の器なのです。

脳が活発に働いて機能しているとき、生命活動としては、糖質やケトン体を栄養にして活動しているとしても、実は感覚からの刺激によって覚醒している、生きているという側面があります。

だから、脳は時には、体を意味のないリスクにさらしてでも、スリリングな経験をしようとします。たとえばバンジージャンプみたいなものがそうです。

ですから、時には体に悪いとわかっていても、色々なものに手を出してしまう。

ただ、それでもすぐに命に関わるとわかっているものを口に入れることは通常ありません。

いろいろな味を試してみたいと思って挑戦するのも、キツイ匂いの食べ物に手を出したりするのも、それが少なくとも害がないという安心感がベースにあってのことです。

いろいろな味の変化といったことは、あそこの〇〇なら大丈夫という評判をとったあとなら、嗜好を変える、目先を変えて楽しんでもらうという意味があるのですが、それはやはり定評を得た後で初めて受け入れられることになります。

それと、やっぱり、味より先に、香り、ですね。