まだ、私が5歳になるかならないかというころ、父はしょっちゅう腫れて、悩まされている扁桃腺を手術で切除する決心をして、あるクリニックにかかりました。
予定ではその日の午後には目を醒まして帰宅できるはずでした。
ところが手術が終わって麻酔が溶けるはずの時間になっても、いっこうに父は目を醒ましません。(確か父は自分の記憶ではどうせ麻酔で寝るから、起きた後は夜勤に出ようとさえ考えていたようでした)
3時過ぎだったと思いますが、慌てたクリニックから近所の黒電話に電話が入り、母が出かけて、かえってきたときにはほとんど半狂乱になっていました。
当時は自前の電話を持つのはどちらかというと贅沢の部類とみなされていて、近所の数件に一台の電話機を共用するのが珍しくなかったのです。
ああ、〇〇(弟の名前)も生まれたばかりなのに、二人も子供を抱えち、どうしたらいいんか、ああ未亡人になる。
それまで、父といっそ別れてやろうかというレベルの激しい夫婦喧嘩が珍しくなかったのですが、母はもうすでに父が亡くなるものと思って気が動転していました。
そのとき、ふっと意識が飛んで、父が横たわるクリニックの病室の風景が目の前のスクリーンに映し出されました。
そこには、大いなる光のドームのようなものがあって、白銀色の翼を持った天使が父を見守っていました。
その方は、男とも女ともつかない、優しい、心の琴線に響く声で、
「お父様は御無事です。」と告げたのです。
そのことを母に伝えると、母はますますいきり立って、「お前ばかいうんじゃない、未亡人になるというのがどういうことかわかっちょるんか!」といって、泣き始める始末。
その後、叔父の一人がクリニックまで車を出してくれて、父は一晩クリニックで寝た後、ゆっくりと意識を取り戻したのでした。
もちろん後遺症などまったくありませんでした。
絵に描いたような無心論者。神も仏もあるものか、という風な姿勢の父ではありましたが、本人の預かり知らぬところで、しっかり、守護されていたのでした。