The Coffee Roaster House

just around five pounds retreat

じっちゃん(曽祖父)のさいご

その日、いつもの退園の時間より随分早く迎えがきて、急遽、父方の実家に赴きました。到着すると、いわゆる仏の間に大勢の親族がすでに集まってみんな見慣れない黒い服をきて、じいちゃんを囲んでいます。

確か白衣を着た医師がじいちゃんを診察して、臨終の時が近いことを告げると、何かの挨拶があって、みなそれぞれじいちゃんのそばによって、各々がお別れの言葉を告げてゆきます。

かなりの大人数なので、それなりに時間はかかったものの、一通り、挨拶が終わっても、まだまだじいちゃんはそれなりに生命力を保っていて、いっこうに逝く気配がありません。

あまりの長さにしびれを切らして、ちょっとざわついたような雰囲気があって、そのあと、いよいよ、というかじっちゃんがちょっと派手な咳をしたのをきっかけにビールが持ち込まれ、今度は、入れ替わり立ち代わり、じいちゃん大好きなビールだ、もう好きなだけのみな、とかいいながら、ほとんど息をする暇もないのではないかというくらいにひっきりなしに、じいちゃんの口元にビールの集中砲火を浴びせ始めたのです。

じっちゃんは、なんどもなんども咳き込みながら、ときおり、もういいとでもいうかのように両手でジェスチャーするものの、皆構わず、そんなにおいしいかえ、あわてんでも、たくさんあるんよ、とかいいながら、遠慮なく、口元にビールを注いでゆくのです。

やがて、じいちゃんは酔っ払ってきたのか抵抗する力をなくして、さらに弱々しくなってきたのですが、なんだか、最後に何かをいいたそうにして、しきりに口を動かそうとするのですが、またまた、まだ足りんのかえ、等々いいながら、どんどんビールが注ぎ込まれてゆくので、じいちゃんは咳き込んでまるで、ビールの海に溺れるようにして最後に力尽きてほとんど反応できなくなっていきます。

ただ、それでも、なにか一生懸命に伝えようとしているのが子供心にもわかるし、とても不自然なことが起こっているような気がするのです。

その先は、子供に臨終のいまわの際を見せてはいけないという配慮なのか、自分が何か声を上げたために追い出されたのか、はっきりした記憶はありませんが、茶の間の方に連れて行かれてしまいましたので、最期の瞬間は目にしていないのですが、しばらくすると、悲嘆に満ちた声が仏の間から聞こえてきます。

そのとき、ふと、あまりの長丁場に疲れていたためか、意識が薄れてしまい、こたつの中で寝入ってしまったようで、気がつくと、夢の中で田んぼの上を飛んでいるのです。その世界では見渡す限り、黄色いチューリップのお花畑が続いていて、小さな小川の向こうにはじっちゃんの旅立っていった世界があるようでした。

せっかくなので自分もそこに行ってみようとするのですが、大きな力が働いてどうしても、ゆくことができません。代わりに、大空にじっちゃんの顔が映し出されて、手を振っているような感じがしました。

その世界ではけっして、沈むことのない暖かい太陽の光が射していて、暑くも寒くもない、心から安らぎを感じられるエネルギーが満ちている感じがしました。

そして、本当にいい人生を送った人だけがゆくことができる世界に、じっちゃんは寄り道せずにまっすぐにたどり着くことができたこと、それはどちらかというと、喜ぶべきこと、むしろ祝福されるべきこと。そんな感じがしました。

もう会えないけど、じっちゃんはなくなってはいない。

目が冷めてそのことをいとこに伝えようとすると、本人は泣きじゃくりながら、ひどく叱られたことだけ、はっきりと覚えています。

でも、世界全体ででみると、死を悼む心は共通とはいえ、どちらかというと本当にお祭りのように祝う文化を持っている国があったり、静かに厳かに過ごす国があったり、専門の泣き女を雇って騒がしくする国があったり、文化により様々なようでどれが正解かは定かでないように思います。

幼いながら、自分が感じた違和感。自分の肉親に対しては同じような最期は送らせたくないと、思ったのを今でも昨日のことのように思い出します。