The Coffee Roaster House

just around five pounds retreat

いのちの恩人 母方の叔父

もう少しで七ヶ月目に入る頃、1600g台の未熟児で生まれた私は、当時の医療技術では保育器がないと生き延びられない状態で生まれて来ました。

当時、保険の適用がなかったために、月40万(本当?)というお金を積まないと保育器を使うことは叶わなかったそうです。

なにせ、日本全体でもほとんど保育器が行き渡っていない時代で、その病院でもほんのわずか前に導入したばかり。扱い慣れていないので、万が一事故があっても責任は持てないという条件だったそうです。実際、保育器の不良が原因で失明したりといった事故が珍しくない時代でした。

それで、父は私のことを諦めようと思ったようなのです。父が育った時代、弱い体で生まれて来た子は早めに見切りをつけて、次の子にかけるというはむしろ当たり前の感覚だったので、無理のないことでした。

ところで、その父に、私がお金を出すから、といって説得してくれたのは、母方の叔父でした。

その叔父は田舎では絶対的な権威で意見をいうことなどありえない、医者にも、理屈に合わないことがあると、時には食ってかかるような方でして、ちょっと漢気のあるような方でした。

それで、父は仕方なく、わたしを生かすことにしたのです。

他人の子にそこまで、干渉する、その感覚が父としてはよく理解できなかったようですが、ただ、叔父のまっすぐな気持ちに思わずうなづかずにはいられなかったのです。

自分はそのときは赤ん坊だったはずなのに、ちょっと恥ずかしいような顔をしている父の姿が思い浮かぶようです。

ということで、わたしは生きることができたのですが、逆に、そのことが父の疑念の種にもなっってしまったのです。