夢の中のうつつ。まだ一歳にもならない自分の赤ん坊の頃の声が聞こえます。そしてそれを聞いている子供、まだ声変わりをする前の私自身の幼い頃の声も聞こえます。そして、その声を聞いているのは私の父でもあるのです。
夢の中で私はその父の立場と子供の立場と両方の立場でその音声の波動に浸っています。
なんと、あらゆる宇宙の森羅万象に充満している温かい気配に満たされて父は愛おしそうに赤ん坊の自分をあやしたりしているのです。
そう、どこでボタンを掛け違ったのか、はっきりとはわからないのですが、私が生まれてしばらくの間、父は自分を無条件に受け入れてくれていた時代があったのです。
それが、たまたま、父が留守の間に母がセールスマンを家にあげているのをみて不審におもったり。
自分の身体能力が同世代の子供と比べて劣っているのをみて、これは自分と血が繋がっていないからではと思ったり。
言葉の発達が遅いのをみて、生まれてこない方がよかったのではないかと思ってしまったり、そういったことが積み重なっていったのかもしれません。
しかし、家にあった、電蓄、当時は父の月給の数ヶ月分にも相当する高価な買い物だったはずの、電蓄を購入した理由はクラッシックを聞きたかったのというのもあるのですが、その電蓄におまけで付いてきた録音機能に惹かれたからで、その目的は、私の成長の記録を取るためだったのです。
確かにかなり幼い頃から、父はやがては映像も含めて子供の成長の記録を当たり前に収録して残す時代が来るからといっていました。
親戚の中でも一番最初にカメラを買ったのは父で、当時一世を風靡したオリンパスペンでした。
それで1500枚も私の写真を取ってやったと自慢していましたが、父はプリントするのが惜しくて、ネガのままだったので、何が写っているのかわからないままで、結局それは母の手でしまいこまれてなくなってしまい、露と消えてしまったのでした。