The Coffee Roaster House

just around five pounds retreat

続x5 おいしさの基準 前編

ここまでのまとめ。ひとことでいえば、人間は自分の体に取り込んで良い。

と思えるものを、おいしいと感じるようにできている。ということです。

(ひとりひとりによって、その判断の基準は異なるわけですが)

さて、人間は視覚優位で物事を認知するとも言われています。

果たして本当でしょうか?

いわゆる五感の中で言えばもっとも発達しているのは視覚と言えるかもしれません

しかし、その視覚さえあの小さな鷹や鳶の目の視力と比べればかなり劣るようです。

ひょっとしたら、カラスにも劣るかもしれません。カラスの目は人間が知覚できない幅広い波長の光を感じていて、真っ黒に見えるカラスの体表面もカラス自身には極彩色に見えているのではないかとさえ言われています。

屋外で、あるいは野生の世界でしのぎを削っている動物たちが人間以上の感覚を育んでいるのは自然なこととはいえ、この点では人間の視覚は高等とはとてもいえないものです。

たとえば、犬は人間の数万倍にも及ぶ感度の嗅覚を持っているといわれていますが、人間と比べれば弱視といえるくらい、視力が弱い。これはおそらく狼のように夜行性で行動していた時代の名残で、暗闇で狩りをするのに適していたことから、嗅覚を優先して発達させていったからでしょう。脳は基本複数のことを同時に処理できるようにできていないそうですから、(だからこそ、集団で行動することは多くの生物にとって意義があるのでしょう)大事な一つの感覚を選択的に発達させるというのは超音波で自由自在に空を飛べるのに、ほとんど目が見えないこうもりなどもそうで、生き物にとってはおそらく自然なことなのでしょう。

人間の場合、いわゆる五感のどの感覚も動物にくらべれば大したことがないとすれば、人間にはその頼りない嗅覚や視覚の代わりに発達させてきたものがあるはずです。

古くはアリストテレスが人間を社会的動物と称したように、人間は他者と情報交換をすることで、その不自由な感覚を補ってきました。

たとえば、今でも間違って、ニラとスイセンを間違って食用にして中毒を起こす人がいるように、人間の感覚はかなりいい加減なものです。

犬や猫がこの種の間違いを起こすとはとても思えません。

しかし、人間はひどい目にあって九死に一生を得た先人の経験やら知恵を学ぶことで補ってきたのです。その伝承がうまくつながらないと、今でも間違いは起こるわけですが、それでも人類全体としては、スイセンで命を落とす人はほんの僅かで無視できるほどで、何万倍もの感覚は不要なのです。

人間の場合、社会的動物として得た情報を抜きにして、物事を認識したり、知覚するのは、ほぼ不可能といっていいほど、困難なことではないかと、くろちゃまめは思っています。

ほとんど場合、珈琲をイメージする一般的な要件を満たしていれば、銘店の珈琲である、とか好みの焙煎度である、とか、どこどこの産地の豆であるといったことや、いつもの好ましいデザインの袋に入っているとか、大好きな〇〇さんが焙煎した、淹れてくれた珈琲であるとか、そういった要素頼って、おいしいかどうか、つまり自分の体に取り込んでいいか、判断しているのです。

こういった情報から完全に離れて、純粋に珈琲の味を評価することは、原則人間にできることではないということです。