The Coffee Roaster House

just around five pounds retreat

続 美味しさの基準x5 後編

大脳が単純な情報の保管庫ではないことは明らかです。

ただ、脳の働きについてはまだわかっていないことも多い。ですからまず、わかっていることから話を始めようと思います。

ここでいう情報とは、ひとつは自分自身の過去の体験から蓄積されたもの。

これは過去の実体験がベースであるために極めて個人的なものではあるとしても、他者の介入を許さない当人にとっては絶対的な揺るぎない評価軸として機能する可能性の高いものです。

もう一つは、周囲の人々、他者との関わり、コミニュケーションからもたらされた情報です。

人間の脳はそれらの情報を駆使して判断する仕組みが備わっているがゆえに機能も豊富かもしれませんが、今、目の前にある珈琲の味を的確に評価するとなったとき、かえって大きな障害となるのです。

仮に同じものであっても、有名ブランドのカップで提供される場合と100円ショップで売られているカップで提供される場合で大きく評価が変わったりということは、むしろあって当たり前です。そういった複雑な情報を処理する働き自体が人間の脳の特質であり、ある意味、人間存在の根源的な性質の一部といっていいのですから、むしろそうでなければなりません。

世間の人はほんとうの味をわかっていないと、嘆いたり、豪語することは、自分自身が野生動物並みの感性しかないと白状しているか、野生動物と同じレベルで物事を判断するよう、周囲に強いているのと同じです。

たとえば、かつて今のインドとネパールの国境あたりで覚者と呼ばれた釈迦のような人物が宇宙即我の境地に達して、珈琲を口にすれば、たしかにその一杯が生まれるまでの宇宙の悠久の歴史や万物の生々流転の過程、産地の人々の栽培の苦労や焙煎の発達の歴史、抽出したバリスタの様々な苦労や思い、それらあらゆることを一瞬にして感じ取って、提供してくれた人や周囲の人々に、ふさわしいことばでねぎらったり、感謝の言葉を述べられるかもしれません。

でも、もし、その味を具体的に表現して、伝えようとなったら、どうやっても、日本語なら、日本語の、英語なら英語の、その文化圏の言葉で表現できる範囲に限定して、何らかの表現をすることになります。となると、そこで、それぞれの文化圏におけるさまざま前提条件や背景を相応程度背負った表現しかできなくなってしまいます。

つまり言葉にすることで、個人的な体験は他者と共有されうる情報として、固定される代わりに、その言葉を生じる文化や集団の前提から離れられなくなって、現実から遊離しはじめてしまうのです。

言葉を使う人間だからできること、でもそれだから、純粋な体験を味わうというのは、言葉を持っているからこそ、困難でもあるのです。