The Coffee Roaster House

just around five pounds retreat

続x6 おいしさの基準 言葉以前の世界

人間は言葉に縛られて、あるがままの世界を感じることが不可能に近く、難しくなっているとしても、かつては、言葉に縛られることなく、ありとあらゆる世界の刺激を受け止めていた時代、幼少期はあったはずです。

ですから、味覚に対しても、野生動物と同じような原体験としての記憶を本来多く持っていてもおかしくありません。

それは言語化する以前の感情のほとばしりや、イメージのようなダイレクトで、ある種のエネルギッシュな情動を伴った記憶として心深くに刻まれている。それらが核となって個人としての味覚の根幹たる基準として作用している可能性があります。

しかし人は、ほとんどの場合、言葉を操るようになる以前について明確な記憶を保つことはできません。

多くの場合、特別に印象的な場面を記憶に残すことはあっても、それ以外のことを思い出せるケースはかなり稀です。

それはやはり、言語を使って、他者とやりとりをすることが、記憶のベースを作るということのほかに、自分自身の中で反芻することが記憶を持続させるには必要だからでしょう。

あの時、あんなことがあったなあと語り合ったり、分かち合ったり、思い返すことが、長期に 渡る記憶として定着するにはおそらく必須に近い条件なのです。

とはいえ、表面意識に上らないだけで、言葉を覚える以前の記憶はおそらく人間の深い意識の底で常に影響を与えていて、そこを基準として、物事を特に、味覚などの原始的な感覚については、認識しているはずです。ということは人間はかなりのところ、というかほとんどの瞬間、過去を基準として、あるいは過去の記憶に引きずられて、物事を味わっているということが言えます。

無自覚のうちに、そういった原初の体験をベースにすることでしか世界を認知できないとしたら、人は、うっかりすると、過去に執われたまま、今の現実を見たり、感じることができない罠に嵌ってしまっていることになります。

高度な知能を持つがゆえに、常に過去に生きている、あるいは目の前にない何かや未来を空想したり、幻想に惑わされて、現実の目の前にあるもののテイストをあるがままに感じることができない。

人間とはある意味、過去に縛られた世界の中で生きざるを得ない、この世界で最も不自由な存在とさえ言えるのかもしれないのです。