もし、ひとりひとりの人間が無自覚のうちに記憶の奥底の原体験に引きずられて現実の世界をありのままに感じれなくなっているとしたら。
同じものを味わっても。お互いに違うことを感じているわけで、永遠にわかり合えない事になってしまいかねません。
実際、同じ物事に触れても感じ方は十人十色というより、百人百様、70億いれば70億、90億人いれば90億の感じ方が存在することになります。
おいしさに基準などありえないのではないか。
あるいは、そう思われるかもしれません。
しかし、あるがままに世界を感じる力が、人間に乏しかったとしても、引き換えに獲得したものがあるはずです。
それはやはり言葉の中に秘められているでしょう。
そのことについて、少し考えてみたいと思います。
例えば、初めて言葉を覚えた幼児が、おいちい、と口にするとき。
最初は単に親や兄弟の真似をしている可能性はあるかもしれません。
あるいは、幼子の発語を喜ぶ両親の姿に応えるために、ただ反復しているだけかもしれません。
それはつまり、周囲の家族と発語することでやり取りする、ある種のエネルギーの交流をすることが目的であって、言葉そのものに大きな意味は込められていないかもしれません。
しかし、そこからさらに発達して、1語だけのおいしい、でなくて、ママ、おいしい、であったり、おいしいねえ。おいしかった。といった表現ができるようになったとしたら、どうでしょう?
この言葉が、ママの料理はおいしいね。とか、今日のスーパーの惣菜は美味しいね、とか、ママの選んでくるものはいつもおいしいねえ。といった意味になるのは、もう少し年長さんになってからではないでしょうか?
では最初に、たとえばママ、おいしい、といえたとき、そこにはどういった意味が込められているでしょうか?
それはたとえば。素材そのものの美味しさなのでしょうか?
しかし、この時代の子供においしいとうれしいの区別が果たしてつくでしょうか?
多分まだまだではないかと思われます。
でも、おそらく、ひとついえることがあります。
それは、他者の同意、もしくは共感を求めていること。
ママ、おいしい(ね)といえる子供はおそらく、一緒に食卓を囲む家族の間で交わされる、今日のご飯は美味しいね、という雰囲気や空気と一緒に、その言葉を覚えたのです。しかしそれは単なる単語の記憶ではない。
おいしいとは、一緒に食卓を囲むことのできる、うれしさ、楽しさ、幸せな空気がパッケージになったエネルギーとして子供の心に刻まれていった先に、それを再確認するような意味合いで自然に生み出される言葉です。
つまり、それは他者がいて初めて生み出される言葉であり、エネルギーであり、場を表す象徴としての記号なのです。