The Coffee Roaster House

just around five pounds retreat

続x8 おいしさの基準

おそらく、ほとんどの人にとって、おいしい、という言葉は、幼少期から食事を共にしてきた家族との団らんの記憶とともにあります。

よく、自分はなんでも美味しく感じてしまうから、食べ物の味などよくわからない、とか珈琲の味なんてわからないとおっしゃる方がいらっしゃいますが、それは幼い頃の家庭環境がほんとうに恵まれていて、あまりに幸せで、暖かくて、楽しくて、そのにぎやかな場の雰囲気とともに食事をするのが当たり前で、実際の飲食の味を遥かに上回る幸福が、美味しいという言葉とともにあったからでしょう。

それは日々生かされていることの幸福を素直に肯定できる気持ちとセットのものであって、決して卑下するものでなく、むしろ誇るべきことかもしれません。

そのような方にとっても、様々な味覚を峻別する感覚が与えられていないかといえば、そういうわけではないのです。ただ、その上に乗っかっているものが大きいというだけです。

かつて、通りを挟んで向かいに住んでおられる大家さんが夕方遅くいきなりシャッターを叩いて、あなた、こんな珈琲を安売りしちゃだめよ、といいにきてくださったことがありました。

その時の焙煎ですが、ちょっと一般よりいいモカをたまたまダブル焙煎したのが瓢箪から駒でうまい具合に煎れたものをシングルでお出ししたものだったのですが、その時、ちょうど大家さんの長女一家が帰省されていたこともあって、程よいモカの香りにびっくりされたようです。これなんて、娘さん一家がいらして一緒にその香りを体験したからこそ、よりはっきり、お分けしたものの価値が伝わったということもあると思いますが、やはり、大家さん自身が自分の嗅覚で感じ取ったからそこ、実感したからこそ、そこまでして、伝えてきてくだっさったのでしょう。

普段は、私のように珈琲の味もロクにわからない人にはなんでもいいわよとか、平気でおっしゃる方でした。

もちろん、その新しい感覚が実際に自分のものとして定着するにはそれなりに意識して取り組む必要があるかもしれませんが、人はそうやってお互いに体験を共有し合うことで、一人では峻別困難なものさえも味わうことができるのだと思います。