美味しさの広がりを3次元的、あるいは多次元的に表現しようとして論を進めると、ちょっと長くなりそうです。
かといって、途中を端折ってしまうと、ある一つの地点に収まってしまいます。
そこに至るまでに過程を順に追ってお話ししたいと思っていますが、相当長くなるので、最初に結論だけお話ししておこうかと思います。
おいしさには最低、2つないし3つのベクトル、または次元があり得ると思っています。
一つは、仲間と共有することが目的の次元。それは極論すればただ、栄養になればなんでもいいというところに収まりかねないものの、毒と有益になるものを見分けるという意味ではとても大事なところではあります。特に毒は口にした時点で一巻の終わりということもあり得るからです。
2つ目は、その個人、あるいは個体にとってどちらかというと特有のオリジナルの体験によって裏付けられるもの。そして、その背景には、DNAや環境遺伝により血縁関係で伝達されるうるもの、そして、社会や取り巻く環境の影響、文化的影響を受けやすい部分、時代の空気に影響されるものなどがあります。
1つ目はごく単純なひろがりのある次元、2つ目はどちらかというと個人的なものになります。まったく同じDNAを持っていると言い切れる人間がそういないように(双子でも厳密に同じではあり得ない)味覚の土台となる肉体に差異があれば同じものを感じているとは言い切れないという意味では簡単には共有し難いものかもしれないものです。そのギャップを言葉を操ることで、人間は埋めようとしているのかもしれません。
ただ、この2つはばらばらなものでなく、究極に2つが1つになる次元があると思うのです。
その、おいしさにおける統一理論、ないし、コーヒーにおける相対性理論の行き着く先をたどってみようかと思っています。
森羅万象、すべての生物に普遍的でなおかつすべからくの人類にとっても意義のあること。そういった世界を感じさせる、美味しさというものがあるということを考えてゆきたいのです。