The Coffee Roaster House

just around five pounds retreat

Oh, my poor father②

父はおそらくわたしが1歳になる遥か前から、確信に近く、この子は自分の子ではないと、思い込んでしまったようです。父の立場からすれば、それはそれでそう思わざるを得ない背景はなくなないのですけれど、それでも父は愛する妻の子だからと自分に言い聞かせるようにして、わたしを育てようとしていたようです。

父なりに、立派に育てようと思っていたからこその、個人授業だったのでしょう。

父は自分が思い出せる限りの幼い頃から、酔っ払うと、馬乗りになって、息ができなくなるギリギリのところまで自分の体重をかけては、子供にとって永遠に等しく感じるくらいの時間、説教するようなところがありました。その内容は実は会社でのうっぷんをはらそうとしているようなエネルギーが大半でした。

これも父なりの理屈で、父なし児と呼ばれて育った自分と違って、父がいるわたしはそれだけで感謝すべきで、しかも自分と血がつながっていないはずなのだから、何があっても文句はいえないだろう、育ててやっているんだから、せめて俺の愚痴や不満のはけ口になれ、という感覚だったのだと思います。

あと、精神的にも肉体的にも鍛えてやろうというのもあったかもしれません。3歳になる前後からやることとは思えないんですが。でもおかげで普通なら記憶に残らないはずのかなりの幼少期の記憶も鮮明に残っているわけですが。

ところで、時折、その愛する妻に受け入れられないと感じると父は拗ねてしまって、ここは俺の家じゃないといって、風呂場の外でしょんぼりとしてただずんで、幼い私を相手にして、お前も俺を、父とおもうちょらんのじゃろ、などとほとんど情けないほど、弱々しい姿を見せることがありました。

そういうとき、子供ながら、なんとかわいそうな境遇に生まれてきたことか、いつかはこの父をこのなんともいえない地獄の境地から救ってあげなくては、といった気持ちになったことがかつてありました。

とはいえ、長ずるにつれて、そういう姿はあまりにも、情けなくて、なおかつ普段、高圧的な態度で処遇されているだけあって、子供でうっぷんを晴らすことしかできない情けない父というイメージとして刻まれることになりました。

実に、かなり長い期間、父はいつも天涯孤独という感覚で生きていたように思います。