Coffee Beans Kurochamame

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おいしさの起源 ⑤ 

90%にも及ぶ空前の直帰率にやっと重い腰をあげるくろちゃまめ。あいかわらず、アクセスしてきてくださる方が何を求められているか、謎ですが。

さて、美味しいという言葉はもともとは人と共有することが目的にあるものであって、個別的な要素が希薄であるはずなのです。

おいしいということばはそれを共有する社会とともにある。

といえ、一人で飲むコーヒーに、思わず、おいしいと感じたり呟いたりすることがあるように、個人的な美味しさというのも、少なくとも、その個人については明白に存在します。

そして、それは少なくともそれはその個体にとっては、すなわち、本人にとってはかけがえのない実感であり、記憶です。その個体が失われると消えてしまうかもしれないはかないものであったとしても、その個人にとっては絶対的な価値を持つものです。

ただし、その、おいしいですら、目の前の食物やコーヒー単体に対するおいしいというよりは、過去体験した様々な味との比較や対称をもとにした、おいしいであることは改めて指摘しておきたいと思います。

初めて、アメリカの軍艦をみた日本人が、それを大きな船であるらしいという以上の認識しかできず、黒船と呼んだように。あるいは、太平洋の真っ只中にある未開の小さな島の住人が、初めて大きな船を目にした時、海の上に大きな山が突然現れたと感じてしまうように、純粋に目の前のものの、味を感じて、評価することは人間には原則無理かもしれないのです。初めて、見るもの、感じることを正確に捉えることは人間にはできない。

常に過去の記憶と比較しながら、物事を知覚しようとする、そのプロセスがあるかぎり、そして、そこに言葉が介在として存在している限り、当人の属する文化の影響を受けています。

その要素は、細かく言えば、両親をはじめとした血縁によってもたらされる要素(DNAおよび環境遺伝的なもの)、社会的文化的な要素、時代背景に左右されるものの3つです。

とはいえ、これらに影響されるつつも、その個人としての原体験が核となっている限りは、ごく個人的な、主観的なおいしさであることは、変わりないはずのものです。

では、他人と容易に共有できる、客観的なおいしさと、このいわば主観的なおいしさはまったくあいいれないものであるかというと、そうではないと、くろちゃまめは考えています。

その2つが1つになる、絶対的な次元が存在すると思っています。そして、そこに至るまでいくつかの段階が存在していると考えても良いのではないかと思っています。