The Coffee Roaster House

just around five pounds retreat

本日のディスカバリー 100g 4バッチ

湿度を取るために冷房を効かせていると、寒くて仕方なかったので、暖を取るためにディスカバリーを起動することにしました。

余熱は40分近くとってとりあえずはやっと見つかったグアテマラを100g。

ところが、全長2.5mの仮設煙突はディスカバリーの排気ファンにとって過負荷だったようで、排気不足気味です。

(実際には、出口のフィルタの扱いがかなり影響していたようです。)

オーバーロードですね。よく言われるように、換気扇のちかくにそっと、煙突を伸ばすくらいがちょうどよいのかもしれません。(この辺りは次の環境で試せると思います)

天井が高いし、壁に穴も開けられないので、煙突の長さは2m以下にはできませんし、

ダンパーをもう一段あけても、対処できそうにないので、補助ファンを用意した方が良さそうです。(排気ファンの出口を手直しして改善できそうです)

余熱の途中で前がかなり下がっていましたので、用意していた定規を下にいれこみました。釜が十分温まってからどうかは、今後検証が必要です。

なぜか、1ハゼが200度台の真ん中くらいまで上昇してしまったので、今回は点検のため、5バッチ目以降は停止することにしました。この状態のままでは排気を強化しようがダンパー操作しようがカバーできず、200gくらいからしか焙煎できなくなる可能性があります。とりあえず、センサーを外してみてみようかと思っています。

センサーはほどよく、こんがり焼けていましたが、そこまでカーボンが厚く集積しているわけでもなく、異常はありませんでした。

本日のディスカバリー ただいま準備中

 

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ディスカバリーただいま準備中

しっかりとした台の上でやってみたところ、だいたいドラムの上あたりに水準器を乗せて測れば、ほぼ水平が出るようですので、結局、スペースの関係で少し丈夫な細い会議テーブルを使ってバランスをとりました。

時間が経つとまた前が下がってくるかもしれないので、その場合は、最後の最後は薄手の定規でも引いて対処することにします。

本当は横の配管はゼロに近づけたかったのですが設置場所の関係でとりあえず写真の状態に。でも一応、縦方向の立ち上がりは2mほど取れたので、これでだいたい排気はバッチリだと思います。本当は内側がスムーズな管がベストですが、仮設ですので、フレキで我慢しました。

その後

排気筒の横方向は30㎝位に詰めて250g煎ってみましたが、豆が出てくることはありませんでした。ダンパーを早めに開けたつもりでしたが、若干排気不足にも思えました。

余熱が4分くらいで見切り発車した状態ですので、あまり参考にならないのですが、いわゆるドラフト効果はひょっとしたら、思ったほど生じていないのかもしれません。

今日は1バッチだけしかできなかったので、今後、いろいろ試してみたいと思います。

本日のディスカバリー 

 

専用の台を用意しようと思ったのですが、結局お客さん用のテーブルとして用意したどっしりとしたものがあったので、そちらを使うことにして、現在、排気系統を構築中。本当は今日にも完成させる予定だったのですが、急遽、大物を運んだりして、貴重な体力が尽きてしまいました。

でも思ったよりはいい環境で使えるようにできそうです。

土台自体。水準器で測る必要がないくらいに真っ平ら。(工事用の水準器はありますけど、ディスカバリーに乗せてもどうにもなりませんので)

最初は自宅に焙煎室を作る予定で動いていましたが、今の場所で、手持ちの豆を焼いてしまいたいので、こちらで行くことに。仮の煙突も縦方向に2M近くは伸ばせそうなので、ディスカバリーで200G以上焙煎するなら、ちょうどいいかもしれません。

実際、先回煙突なしで焙煎したものも、3バッチ以降くらいでしたら、なんとなく、230Gくらい淹れたものが一番、いい感じに熱量が伝わっている実感がありました。

でも、余熱の途中だと、100Gが一番良かったので、最初の2バッチくらいは100Gでいくことにして、バッチ以降は250G程度で焙煎するのを標準として、セッティングしてみようと思っています。

この後は殆どグチみたいなもんです。

今、右手の指先に力が入りにくくて苦戦していまして、左手もまだまだ本調子には程遠く、弱気になっていましたが、2週間ほど前の焙煎でいっぱい飲んでみたら、おもったよりはいけたので、ひさしぶるにコメントつけていただけたりしたのもあってそれでなんのかんのいいまして、少し復活。

この豆、古さを感じるかと思ったら、こなれた感じだけで、なかなか。これ、ケニアにしては格安クラスの豆で癖を感じやすいのですけど、アイスにするとそれが気にならない。ホットでも淹れてから少し時間が経ったほうがバランスがいいんですよね。その点、アイスでの評価は冷めるまで待つ必要がないので、カッピングより早いし楽です。ドリップバッグの評価もアイスでやってみようかと思っています。

 

やっとiphoneの画像をマックに転送できるように、なった。

はずなので、明日以降は、たまに画像入りでアップできる予定です。

ネット環境が使えないと、プリンタの設定もろくにできない世の中で、なんにもできないのに、うっかりWIFIのお試し期間をオーバーしてしまって、もうガッカリ。クラウドWIFIは自分にとってはまったくつかえないものでした。じかんたいにもよりますが、楽天モバイル単体の方が少しだけ安定しています。大分では安定して使えたWIMAXもこちらでは15分毎くらいにぶちぶち、回線が切られることがあって、ほとんどのDLが完了できず。急遽、光を頼んだものの、工事は1ヶ月以上先になりそうな状況で、まいりました。

 

 

本日のくろちゃまめ 当面、アイスを

評価の基準ということに、にしてしまうかも……

長いこと、夏の間もホットで過ごしてきました。なんといっても、きちんとホットで、それも基本はハンドドリップで抽出しないとコーヒーの本当の良さは把握できないのではないかと思っています。もちろん、サイフォンなりの楽しみや特に浅煎りでのフレンチプレスの手軽さも捨てがたいというのはありますけど。

どうしても暖かいお湯を通さないと感じにくい部分は最後まで残る。

アイスにすると、どうやっても本来の生豆の良さの50から70%くらいしか出せない気がします。

とはいえ、夏にホットは体が茹で上がってしまってどうしても受け付けない。もしくはきんきんに冷房を利かした状態でないとやっていけません。

これ、どう考えても今の時流に逆行していますし、不自然なこととかと思います。

(生豆の保管を考えても微妙です。専用の保管スペースが用意できるといいんですが)

しかし、最近、、気が付いたのは、この70&なり50%の状態の方がむしろ、焙煎の可否はクリアに出てくるように感じます。

またそれとは別に、ホットだと隠れてしまう成分もアイスだとよりくっきり判定できるように思います。

ということで、当面はアイスで判定したものを通常のカッピングで最終評価する。

という方法で、アイスでの評価基準を自分なりに作っていっていく予定です。

※ちなみにカッピングはフレンチプレスの変形というのがくろちゃまめ的理解です

 

 

その後のディスカバリー②

どうしても250g煎れないと思っていたディスカバリーですが、前の部分に少し物をかませて入れてみると、全然平気。そもそもカロリーとの兼ね合いでいえば、300g以上煎れてもおかしくないものですから。

で、改めて水準器で確かめてみると、ほとんど計測誤差の範囲内。

細かくいうと、焙煎機の後ろで測るか中央で測るか前で測るかで逆転してしまう程度です。

大体、0.2ミリ程度前を上げただけでも充分なようです。(しかしじゅうぶんで変換して、一番、初めに重文を出してくるIMEはどうしたんですかね。)

改めて台を見てみると、ディスカバリーの重量に負けて中央がたわんでいました。

ほぼ真ん中に置いているので、ほとんど影響していないはず、なのですが、結構影響していました。ということで、ディスカバリーの重量に負けず、しかも作業がスムーズにできる大きさの台を手配することに。

それと煙の影響が、特に深煎りの場合、無視できないので、急遽排気も。となると、まるきり設置場所まで変更せざるを得なくなり、ただいま、再度の引っ越し準備中。

本当にやりたい焙煎は浅煎りなのですが、やはりある程度の深煎りで、100バッチくらいしたほうがむしろ、早道ではないかと思うところもあり、またアイスコーヒーの季節でもありますからね。

ただ、ある程度の豆でかつ、適切に焙煎できてさえいれば、アイスだって浅煎りでもいける、というか、むしろ浅煎りの方が深煎り以上にアイスに向いているのではないかと思うくらいです。

アイス=深煎りというのは、古い常識のように思います。というか、上手に焙煎できなかったり、いい豆が手に入らななかった時代の業者の言い訳のような気さえもしてきました。

おいしさの起源 ⑦

最初にお話ししたミツバチの話に再び戻りたいと思います。

さて、新しい花畑を見つけたミツバチが巣に帰ってダンスを踊るとき、単にそのミツバチは情報交換しているのでしょうか? または喜んでいるだけなのでしょうか?

そして、それを取り巻く、仲間は本当にただただ興奮しているだけなのでしょうか?

仮によろこんでいるとして、あるいは興奮しているとしてもそのエネルギーはどこから出ているのでしょうか?

それらの活動を単なる物理現象ととらえるならば、蜜を消化して獲得した栄養を分解して得られるエネルギーからという答えになってしまうかもしれません。

しかし、ミツバチを一個の意志ある生命としてみたらどうでしょう。

かつてお話ししたように、この世界はすべての生物が自らの意志で意欲的に活動して、その結果、お互いにささえあう仕組みで成り立っているはずです。

ミツバチは新しい蜜の園を見つけたことを喜んでいるのはおそらくは間違いないのですが、それがただ自分たちの生命維持に役立つから、喜んでいるわけではないのは、ほとんど明らかです。巣を形成している時点ですでに有り余るほどの蜜を蓄えている、ミツバチたち、まるで働けること自体を喜んでいるかのようでもあります。これでまたしばらくは、蜜を集める仕事ができる、うれしいな。といった感じでしょうか。

しかし、これ、もっと踏み込んでいえば、あるいは、擬人化して人間の言葉に翻訳していえば、ありがたいなあ。という感覚に近いのではないかと思います。

それは、文化や宗教の違いにかかわらず、人間社会にも普遍的にあるものだと思います。

多くの文化圏で、収穫の祭りがおこなわれているように、ミツバチたちは、日々、花畑を見つけるたびに、感謝祭をしているようなものではないかとくろちゃまめは思っています。そして、神輿を担いで回るような日本の祭りの原点もあるいはここにあってもおかしくはないと思うのです。

そして、以前、お伝えしたように、こういった自発的な意思で活動する力を与えているものは 物質の世界では、この世界にあふれている芳香物質ではないかと考えているのです。

日本人がよく、感謝をしなさいというのは、ちょっと本来の趣旨と違うと、個人的には思っていますし、またクリスチャンでいう神への愛とか奉仕というのも、また一見、まったく別のことを言っているように感じます。しかし。

この世界では、少なくともミツバチくらいのサイズの生物にまでなると、わかりやすい形で、ある種の、生かされていることへの感謝の態度、あるいは気持ちの表明、表現のようなものが自然に自発的にみられるように思います。

それはたとえば誰に聞かせるでもなく、鳴いて、音の調べで森の空気を震わせている、小鳥のさえずりや、時にはうるさいくらい鳴くかもしれない。カエルの合唱や、セミの競演、かぐわしいにおいであたり一面を満たしてくれる様々な植物の活動。ありとあらゆる生物にみられるものと思います。

人間にとって、それがどういうものであるか、あるべきか、について論じるのは、ひとまずは横において、本質的に、音楽などの人間における芸術的、文化的な活動にも勝るとも劣らない力がそこに現れているように思います。

 

おいしさの起源 ⓺

ホームページひとつ開き始めるまで10分以上かかる状態ですので、ここからはウィンドウズでお送りします。というのは見る方にとってはどうでもいいことでしょうが。マックはバックグラウンドでDL}されるファイル容量がけた違いに多く、100倍くらいありそうなことがわかってきました。しかも止める方法さえない。延々と何か月もファイルをDLし続けてなお終わらないこともある様子です。まいった。

さて、おいしさの起源 4と5の内容がかぶっていて、下書きに戻して、整理しようとしたら、うまくいかないので、代わりに先に、6をアップして、後で整理することにします。

この客観的なおいしさと主観的なおいしさには決して交わることがない次元的なギャップがあります。一方で個人的な主観的なおいしささえも、当人の属する文化や言葉の影響を強く受けてもいる。だからこそ、時に切り分けが難しい。混同されやすい部分でもあります。

しかし、はっきり言えるのは、通常の体験の範囲ではけっして交わることのないべつじげんのものであるということ。少なくとも(家庭で料理するといった程度であっても)飲食にまじめにかかわろうとするなら、おそらく、そのことはしっかり理解しておく必要があります。

自分がいいと思うものを他人がいいと思うとはかぎらないという単純な事実は時に見過ごされがちです。しかし、自分の舌にいいかどうかという基準だけで考えていると、やはりある種の迷路、あるいは独りよがりな世界に迷い込んでしまうということでもあり、逆に自分がNGと思うものでも、本当に喜んでいただけるということもあり得るということなのです。

自分の味覚の前提条件となっている現体験のようなものをはっきり相対化できない限り、少なくとも相対化してゆく努力をしない限りは。

このことはお互いの味覚の違いで時にぶつかり合うことのある既婚者であればある程度体感的に理解されておられると思いますが、中には思ったことを率直に伝えられない方もいらっしゃると思いますから、なかなか本当の意味では分かり合えない部分かもしれません。

世間一般のおいしいには、原則的に口にしていいよ(毒がなくて、何らかの栄養なり、水分補給ができますよ)という程度の意味しかないこと。そして、自分の感じる、おいしいは、自分中では絶対に近いものであっても、他者と一致するとは限らないこと。むしろ一致しないことのほうが多いかもしれないということです。

 

おいしさの起源 ⑤ 

90%にも及ぶ空前の直帰率にやっと重い腰をあげるくろちゃまめ。あいかわらず、アクセスしてきてくださる方が何を求められているか、謎ですが。

さて、美味しいという言葉はもともとは人と共有することが目的にあるものであって、個別的な要素が希薄であるはずなのです。

おいしいということばはそれを共有する社会とともにある。

といえ、一人で飲むコーヒーに、思わず、おいしいと感じたり呟いたりすることがあるように、個人的な美味しさというのも、少なくとも、その個人については明白に存在します。

そして、それは少なくともそれはその個体にとっては、すなわち、本人にとってはかけがえのない実感であり、記憶です。その個体が失われると消えてしまうかもしれないはかないものであったとしても、その個人にとっては絶対的な価値を持つものです。

ただし、その、おいしいですら、目の前の食物やコーヒー単体に対するおいしいというよりは、過去体験した様々な味との比較や対称をもとにした、おいしいであることは改めて指摘しておきたいと思います。

初めて、アメリカの軍艦をみた日本人が、それを大きな船であるらしいという以上の認識しかできず、黒船と呼んだように。あるいは、太平洋の真っ只中にある未開の小さな島の住人が、初めて大きな船を目にした時、海の上に大きな山が突然現れたと感じてしまうように、純粋に目の前のものの、味を感じて、評価することは人間には原則無理かもしれないのです。初めて、見るもの、感じることを正確に捉えることは人間にはできない。

常に過去の記憶と比較しながら、物事を知覚しようとする、そのプロセスがあるかぎり、そして、そこに言葉が介在として存在している限り、当人の属する文化の影響を受けています。

その要素は、細かく言えば、両親をはじめとした血縁によってもたらされる要素(DNAおよび環境遺伝的なもの)、社会的文化的な要素、時代背景に左右されるものの3つです。

とはいえ、これらに影響されるつつも、その個人としての原体験が核となっている限りは、ごく個人的な、主観的なおいしさであることは、変わりないはずのものです。

では、他人と容易に共有できる、客観的なおいしさと、このいわば主観的なおいしさはまったくあいいれないものであるかというと、そうではないと、くろちゃまめは考えています。

その2つが1つになる、絶対的な次元が存在すると思っています。そして、そこに至るまでいくつかの段階が存在していると考えても良いのではないかと思っています。

 

 

おいしさの起源 ④

美味しさの広がりを3次元的、あるいは多次元的に表現しようとして論を進めると、ちょっと長くなりそうです。

かといって、途中を端折ってしまうと、ある一つの地点に収まってしまいます。

そこに至るまでに過程を順に追ってお話ししたいと思っていますが、相当長くなるので、最初に結論だけお話ししておこうかと思います。

おいしさには最低、2つないし3つのベクトル、または次元があり得ると思っています。

一つは、仲間と共有することが目的の次元。それは極論すればただ、栄養になればなんでもいいというところに収まりかねないものの、毒と有益になるものを見分けるという意味ではとても大事なところではあります。特に毒は口にした時点で一巻の終わりということもあり得るからです。

2つ目は、その個人、あるいは個体にとってどちらかというと特有のオリジナルの体験によって裏付けられるもの。そして、その背景には、DNAや環境遺伝により血縁関係で伝達されるうるもの、そして、社会や取り巻く環境の影響、文化的影響を受けやすい部分、時代の空気に影響されるものなどがあります。

1つ目はごく単純なひろがりのある次元、2つ目はどちらかというと個人的なものになります。まったく同じDNAを持っていると言い切れる人間がそういないように(双子でも厳密に同じではあり得ない)味覚の土台となる肉体に差異があれば同じものを感じているとは言い切れないという意味では簡単には共有し難いものかもしれないものです。そのギャップを言葉を操ることで、人間は埋めようとしているのかもしれません。

ただ、この2つはばらばらなものでなく、究極に2つが1つになる次元があると思うのです。

その、おいしさにおける統一理論、ないし、コーヒーにおける相対性理論の行き着く先をたどってみようかと思っています。

森羅万象、すべての生物に普遍的でなおかつすべからくの人類にとっても意義のあること。そういった世界を感じさせる、美味しさというものがあるということを考えてゆきたいのです。

おいしさの起源 ③ おいしい料理が売れるのではなくて・・・

売れているのがおいしい料理である。

これは何を隠そう、サイゼリヤの創業者の言葉です。

一見、大してこだわりのない大衆向けのレストランの経営理念と受け取られがちですが、この言葉には確かに真理の一端が表現されているように思います。

多くの人に受け入れられているものはおいしい

いや、より多くの人に受け入れられるものこそが、おいしい料理なのである

たしかに種の保存のためにはより多くの仲間にとって有益な栄養源を見つけて共有するのはもっとも合理的な選択です。

この点、より多くの人と共有できるクォリティを持つものが、よりおいしいと認知されるのは、ごく自然なことであり、逆らえない生物としての本能みたいなものです。

これが第一の、平面的な広がりのある、おいしさです。

実際、サイゼリヤの料理はチーズをはじめとした素材一つとっても、かんたんに安価では手に入りにくそうなクオリティである上に、サラダなど、ちょっとびっくりするくらいの量で提供されることもあって、それなりに食にこだわりのある方にもそこそこ受け入れられるであろう質と量を兼ね備えていいる上に、味のほうもイタリア通を自負する向きや当のイタリア人にも一定の評価を受けているようです。

サラダ一つとっても、自分の場合、たとえば水菜は苦手なので、あまりたくさんあると困ってしまうのですが、それでも、まるでとれたてのようなみずみずしい農薬の香りのしないその他の野菜と一緒に出されると、その量に慌てながらも、何とか食べてしまいます。

ちょっとかさまししているよなあと思いつつ、お値段を考えると、とても文句は言えないなあと思うわけです。もちろん、どんなに繁盛しても、サイゼリヤが究極のイタリアンとして通用するわけではないにせよ。

この広がりは、やはり、おいしさの最重要要素のひとつであると言い切っていいほど、大きいのはまちがいないことでしょう。