The Coffee Roaster House

just around five pounds retreat

コーヒー論争④

地方で深煎りが好まれる3つ目の理由は、味覚の違いです。

自分の子供の頃はお弁当のおかずはかなりの確率で、ゼンマイや筍やふきのとう、さらにはごぼうでした。何が言いたいかというと、すべてある種のアクや苦味の成分がつきものの味覚だったのです。

これら山菜などに幼い頃から親しんでいたり、またお風呂を沸かすにも薪を炊いたり、時には野焼きがあったり、炭焼き小屋が近くにあったり、陶芸家の窯が近くにあったり、といったこともあって、キャンプファイヤーやキャンプで飯盒炊飯したりといった経験以上の煙臭いようなそうでもないような、どこか深煎りにまつわる体験を都会で育った方以上に日常的に経験して生活しているのです。

そういう意味では深煎りに関連するあらゆる成分に元々慣れている。悪く言えば鈍感なのですけれど、それだけ物事を味わうレンジが広いとも言えます。

それと歳をとることの影響もあると思います。大人になる程、味覚のレンジが広がって、苦味や渋みの成分の奥にある味を感じ取り、深く味わうこともできるようになる。

その点でも高齢化の進む地方で深煎りが好まれるのはほとんど必然です。

田舎基準で言えば、都会の人の舌は未熟で若い。逆に都会基準で言えば地方が雑味に鈍感ということになりかねないところですが、ここでバトルしてては、もちろん、不毛です。

やはり都会のロースターの焙煎は都会で飲めばその良さがはっきりわかるし、南アルプスの麓の山梨やら長野の水で飲めばコンビニコーヒーさえ下手すると、プチスペシャリティ感が出る。本物ならなおさら、そしてその逆も真だと思います。

一例を挙げれば(神戸あたりを田舎と同じ扱いするのは申し訳ありませんが、わかりやすいと思うので書きますが)日本酒の醸造に向くと言われる六甲の水とか神戸で淹れた深煎りにはなんとも言えない深さが感じられたり。

地方にはその地方ならでわの、食文化や風土に合わせたコーヒーがある。

そういうことではないかと思います。

だからこそ、九州に生まれたら、やっぱり東京に頻繁に通うなりしていかないと偏ってしまうという気がします。

とにかく、九州自体が大きな井戸か温泉みたいなもんで、自分にとってはどっぷりぬるま湯に浸かった九州大陸(島)という感じでちょっと馴染めないんですよねー。

いくつになっても都会に憧れるというより、なんだか地元に根付けない感覚があります。代わりに地球全体をふるさとと思えればいいんですけれど、ねえ。

コーヒー論争③

今回、どうして、九州(だけではないと思いますが)、地方一般により深めの焙煎が好まれる傾向にあるのか、改めて考えてみました。

関東やら、中部やら、中央に近い地域で活動されておられるかたにしたら、田舎はコーヒーの本当の楽しみ方がわかっていないとか、スペシャルティクラスの豆の価値が伝わりにくいからだろう、と思ってしまうかもしれません。

九州自体、醤油や味噌からして、甘口が好まれる地域でもあります。

ラーメンだって、豚骨系はどっちらかというと、醤油ベースがおおい関東の味付けとは違って、とんこつのまろやかさというか、こってり感というか、ようするに、おだやかな風味が主体になりがちです、これもいってみれば甘口。関東の方基準で見れば、お子ちゃまの舌に感じられてしまうかもと思います。

でも、自分は関東に住んでいた時代もありますけど、そういうふうには思えないのです。ただ、関東や中部の条件のいいところの水で飲むと、スペシャルティで評価の高い銘柄の良さが際立つなーとは思っていますけどね。

さて、どうして田舎で浅煎りが避けられ、深煎りが好まれるのか。

それには大きく分けて3つの理由があるとくろちゃまめは考えています。

まず、第一は。

田舎は空気や水の質に比較的恵まれていることが挙げられます。(当該地域に住んでおられる方には大変申し訳ないのですけれど)東京ビックサイトのある港区あたりですと、正直、水道水にはかなりの洗濯水やらなんやらが完全に濾過されずに混じっている感じがして、有名な立ち食い蕎麦屋などで食事すると。あ、口から泡がでてこないかなとちょっと思うことさえあります。もっともきちんとした浄水器を使っているホテルやSCAJの会場でそこまで感じることはありませんでしたので、単に浄水器のフィルターの寿命がきているだけの可能性もありますが、全体に明らかに水質は違います。

何が言いたいかというと、大体において、田舎の水の方が澄んでいて、特に西にいけばいくほど、軟水になる傾向にあり、雑味も含めて出してしまいやすい傾向にあって、それらが際立って感じられやすいのではないかとうことです。

2つめは農薬の影響です。田舎は残念ながら、他の成分は少ないとしてもおそらく大気も水も農薬の影響を都会よりも強く受けています。ですから、田舎に住んでいる方の体内ではある意味、耐えられるギリギリに近い成分がすでに蓄積されている可能性があります。とすると、ここで登場するのはコーヒー豆に残留する農薬の影響です。ポストハーベストを含めて、生産から流通の過程を通してコーヒー豆にはある種の農薬の使用は避けることが難しいです。(一部の高価な豆は除く、かもしれません)世界の農業のなかでもっとも農薬の使用が多いのはコーヒーとも言われているくらいですから。

いかに残留濃度が少ないとしても、そして、ほとんどが焙煎中に分解されるとしても、焙煎中にコーヒーの成分と化学反応を起こしたりしないわけがありません。

そう言った成分はコーヒーの味わいに影響する(悪影響とは限りません)だけでなく、多少なりとも体に負担をかけるものである可能性があります。かといって、ポストハーベスト剤などを使わず、カビが発生すればその方がより有害な可能性がありますので、これは必要悪です。浅煎りの場合、こう言った農薬の成分やら、カビ毒の一部が残りやすいので、普段から農薬の成分にさらされやすい田舎の人々にとっては飲みにくい、と感じられている可能性があります。東京に流れ込んでいる川にも同様の成分はあるかもしれないのですが、相対的に目立たなくなっているでしょうし、少なくとも大気にはただよっていないでしょうから、この点では田舎の方が不利とも言えるかもしれません。

よくいえば、田舎の方の舌の方がこういった成分により敏感なはずなのです。

コーヒー論争②

どうしていいかわからず、とりあえず、テスト用に焙煎した豆を使って、さらに深めに調整してブレンドしてみました。実際評判の良いブランドの方のレギュラー粉は十分に1段階深いのです。つまり今使われているブランドがシティとしたら、フルシティに相当するくらいに深い。しかも、間違いなく使われている豆のグレードは上で尚且つ焙煎もしっかり揃っています。ひょっとしたらプリミックスかもしれません。

これにせめて焙煎度を合わせようと、より深めのフレンチと言って良い豆を合わせてみます。と、最初の一杯から、余計な酸味感が付きまとう以外はまずまず。ただし、冷えた後がちょっとまずい。一気にバランスを欠いた感じで、全てがバラバラ。この状態だと再ブレンドする前の方が飲みやすいくらいです。

これを改善するには一番いいのはもっといい豆を使うことですが、もうそこまでしたら、いっそ全てを新しくした方が良い。かといってせっかく買ったものを無駄にするのは好ましくありません。どうしたものか。

湯温の調整のような面倒なことを要求するわけにもいかず、手詰まり感のある中で、2:8, 3:7. 4.6とやってみると、考えられるのは7:13位のバランスで、少し粒度を調整して、落ちるペースをコントロールするくらいしかできそうにありません。

弱ったなあ、いろいろ考えていて、淹れる方に気分に応じてブレンドしてもらうのもありかなと思いましたけど、それも人によっては負担になりそうなので、時間の経過に合わせて、こちらで少し微調整してお渡しすることを考えました。

どうしても、新しく合わせる側の焙煎が新しすぎて、炭酸ガスの抜け具合でバランスが変わってしまって、淹れにくかったり、味が一定しない感じがあって、難しい。

ただ、焙煎したて感が多少なりともあった方が特に淹れたては気分が良さげなので、焦げ臭さを感じるギリギリまで深めに持っていくしかありません。

残念ながら、評判の良い方のブレンドのスィートネスの再現はどうしても難しいのですけど、そのあたりは諦めるほかないようです。どうやっても、最初からブレンドに使われている浅めの銘柄の影響は残ってしまうし、ちょっと口を窄めたくなる感じをゼロにはできません。

今の所、少し、味変しつつ、なんとか消費できればと言った感じになってしまいそうです。

コーヒー論争①

職場などでコーヒーが提供されている環境だと、ハンドドリップよりは、普通にコーヒーサーバーを利用していたりするところが今でもさすがに多いかと思います。

自分が小学生の時分から、70年代後半くらいからオフィス向けのコーヒーサーバーと粉がセットのビジネスは当たり前にあったように記憶しています。当時はコーヒーサーバー自体が結構高価(20万くらい?)でレンタルみたいなことをしても十分ビジネスになったんでしょう。そもそもコーヒーの粉(インスタントでない)自体がそうそう地方の市町村のスーパーで買えるもんでもなかったように思います(MJBとかのアメリカ製品が手軽に買えた都会と違って)

ですから、21世紀の日本で、ここのように、小規模とはいえ、今ではわざわざハンドドリップしていれるなんてちょっとレアだと思います。ハンドドリップは和製英語英語圏だとプアオーバーと言いますけど、これ、文字通りお湯を注ぐとか、上からお茶漬けみたいにぶっかける感じに近いニュアンスもあって、日本式に丁寧にお湯を注いで抽出するスタイルとはちょっと違う。実際、海外の人が実演しているところをみると結構、わざわざフィルタの中の粉をかき混ぜたりしていますから、そもそも抽出に関する考え方が全然違うんでしょう。

さて、今、週1程度でお邪魔している場所では皆さんコーヒーがお好きということで、昼食どき以外はコーヒーが大量に出てきます。これがしばらく前は、一応、日本のブランド(大昔のアメリカブランドでない)の粉らしく、といっていいのか、安定感ある焙煎で最新のミルなどが使われているおかげでかすかに煎りたて感に近い風味さえも感じられて水分補給がわりには悪くないかなという感じだったのですが、ここしばらくはなんだか変。同じ缶なのになんでだろーと思っていたのですが、謎が解けました。

缶はただ保管のために使っていただけで、中身は別物にいれかわっていました。それも今では世界最大級の食品メーカーとなった別のブランドに。

コーヒー豆って農産物です。米もそうですけど、米以上に繊細な部分があると思います。嗜好品ですからね。そして、その時々で品質のばらつきも決して小さくない。

ということは大量に扱おうとすればするほど、どうしても、平均点を下げざるを得ないんですよね。ちゃんとした技術を持ったメーカーであっても大量生産する前提だとそのあたりはいろいろ難しい。そして大量に作る前提だとコストを下げられるというよりも、むしろ大量に売るために安くしなくてはならない。いきおいコストもギリギリまでカットしないといけないというふうになってしまう。大量に売ること前提でビジネスを組み立てるとこうなります。

この製品に関していえば、関東圏ならぎりぎりうけいれられそうですが、九州人が好む焙煎のレンジから外れていることもあって、それだけで一般の方には薄みに感じるようです。それとやはり豆の差は隠せない。

大体、粉を見ただけで、焙煎に失敗したバッチを混ぜた可能性があるのが見え見えなんですよね。芯残りというやつです。浅煎り加減の豆をブレンドしてあげればプチスペシャルティ感がでてかえって評判良くなるかもと思った可能性もあります。この辺りは後追いだと特徴を出さないといけないというのもあって匙加減も難しいところだと思いますが、残念ながら、こういうのは九州の水とは断然相性が悪くなる。本来なら、日本中知らない人がいないカフェの焙煎を任されるレベルのしっかりとした技術を持っているメーカーではあるんですが、全てに最新の技術と最善の手間をかけるわけにもいかないし、全国販売前提で大量生産するビジネスモデルの限界なんでしょう。

さすがにこれ、インスタントコーヒーさえ贅沢品扱いで育った世代からしても、ちょっと耐えられないというかいろいろ不満が吹き出してきて、大量に買った在庫を前にゲンナリしながら飲んでいる状況。

で、これをどうやって飲めるようにできるか、現在、研究中。

結構辛いですけど、頑張ります。

 

お米のおいしさと天日干し③

実家に帰るたび、毎回ちょっと押し付けられるように帰り際に受け取って、しぶしぶ食べていたお米。玄米で食べても精米してみてもなんとも冴えない味でいつもなかなか減らず困っていました。

先々月かあるいはもっと前だったかと思います。久しぶりに家に帰って、帰りしなに渡されたお米の袋が裂けてしまって、大半のお米を庭にぶち撒いてしまいまして大変な目に遭うという事件がありました。

慌てて拾い上げて、そのまま、たくさんの異物が混じったまま別の袋に入れ替えて持ち帰ったわけですが、ずっと台所の隅に置いてありました。室内は結構湿気もあるし、なにかのはずみに水がかかったり、ちょっと醤油がかかったりというアクシデントさえあり、保管にはとてもベストとはいえない散々な状況なはずで、もう食べられないのではないかと思うくらいの状態で捨てられないまま置いてあったのでした。

一度、戻ってきて試しにすぐ炊いた分は、やっぱり、いつものあの味。ちょっと重たくて、一口食べただけで、体が重くなるようにさえ感じて、積極的に食べたくならない感じ。無農薬でないのはもちろん、おそらくプチ減農薬程度。もちろん天日干しなんかではないはず、なんですが…。

ところが、それがなんと、その後、またまた時間が経って、たまたま新しい圧力鍋で炊いてみたら、あら、不思議、なんだか天日干しといわれて食べさせられたら信じてしまうくらいの豊かな風味、どうしたことでしょう? 米袋を開いただけで、お日様のニオイがぷんぷん、するような本物の天日干しには敵わないし、無農薬やいわゆる有機肥料を使って丁寧に作ったようなお米とも違う、九州のごくごく田舎の普通のお百姓さん家から買っただけのお米のはずなんですが、妙においしく感じられます。これなら、いくらたべても飽きないというくらいなのです。本物の天日ぼしではないはずなのですが、ある意味、それに匹敵するくらいの食べやすさ、というかほんわりとしたあたたかい味というか。

果たして、この違いはどこから来るものか。炊飯に使った鍋が変わったからか、それとも、購入先の農家が変わったからか、あるいはひょっとしたら、水に浮かんでくる異物を時間をかけて除けて研いだので、その分、味に影響したのではとか色々考えるのですが、なんだかしっくり来ません。そんなはずはないのです。

で、一番有力な説は、これって、やはり酵母菌などの微生物の仕業なんではないかということ。

袋を破いて失敗したと思った瞬間。そして、地面に落ちたお米を拾うのはとても惨めな気分だったのですが、なんと、これ、すごいことになったかも。

こんなことで天日らしい味が出せるとしたら、なんという幸運!

そして、これ、間違いなく、コーヒーの世界でも応用できそうに思うんですよね。

つまり、現地でお日様を浴びていない豆でも日本に来てからでも、完成させることができるんではないかということなのです。

もうこれは発見といっていいレベルではないかと。

さっそく再現…できるかな。

 

お米のおいしさと天日干し②

この、いわゆる天日干しですけれど、コーヒーに例えれば、伝統的なナチュラル製法みたいなもんです。

それも(イエメン地方の)モカの伝統的な製法がそれにあたるように思います。

これはお米の場合ではありますが、はざがけしている間、全く雨が降らず乾燥していればいいかというとかならずしもそうでないように思います。すぐ乾くでしょうけど、おそらく天日干しらしい風味は控えめになりそうに思います。

もちろん、雨続きだったら最悪です。なかなか屋内に取り込むわけにもいきませんから、そのタイミングで収穫した分は全滅とまではいかなくても、品質的には劣化したものになるはず、これはまずい。

では理想的な条件があるとすれば何か。それは少しだけ小雨に当たって、一晩過ごして、翌日は晴天、それから少し乾燥した天気が続いて、またちょっとだけ雨に当たって、乾燥してというのをある程度繰り返して、相応の期間をかけて最終的に仕上がる状況にあるケースと思われます。

何がいいたいかというと、酵母をはじめとする有益な微生物が稲穂の中で十分に活動できる環境が整った期間がある程度ないとおいしくならないだろうということです。

実は、穀物が実りつつある間も酵母菌などの微生物は活動していますから、天日干しでなくても、穀物の風味にはこれらの微生物は介在しているはずなのですが、それを最終的に完成させるのが天日干しに相当とする期間なのではないかと思うのです。

そういう意味では、天日干しをしないコメも、天日にさらさないコーヒー豆もある意味では未完成、とさえ言えるのではないかと思っているのです。

 

お米のおいしさと天日干し①

自分が小学生に上がる少しまえまで、母方の実家では田植えもほとんど手作業で家族総出でやっておりましたので、自分も少しお手伝いした記憶があります。

実はおじは地方の農協でそれなりに出世した方だったので、当時としては最先端に近い田植え機を導入したのも、収穫後の乾燥機を導入したのも、地域ではほとんど一番でした。

ちなみにその頃、農家では、収穫後の稲はいわゆるはざ掛けをしてから、脱穀するのが当たり前でした。

途中、雨に当たりすぎると品質が大きく劣化してしまう。かといって、乾燥のことだけ考えて収穫の時期をずらすとうまくいかない。

通常、ベストのタイミングで収穫した籾には玄米にすると、青い小さな粒が1割弱ぐらい混じってしまいます。この未熟に見える稲がむしろ、特に新米のういういしい香りを引き立てるようにも思えるのですが、全体が熟し過ぎてしまうと、おいしさが失われてしまうのは、コーヒー豆の収穫のタイミングにも通じるところがあると思います。(今では産地から直接購入しても、この青い粒は取り除いて出荷するところが大半のようです、都会の消費者のクレームの力に負けたんだと思います)

ところで、天日干し、と機械乾燥の差ですが、当時から議論になっていたのは、やはり天日干しの一部の劣化したものを除けば、機械乾燥でははるかに及ばないおいしさがあるから、絶対天日干しでないと、という意見が昭和40年代の中頃過ぎは優勢だったかと思います。当時出始めたばかりの乾燥機自体が相当高価な上に、故障も珍しくなくて、途中でこけたり、高額な修理代になくことが珍しくなかったようですから。

それでも、やはり安定した品質と労力の少なさであっという間に機械乾燥が主流になりました。

今では天日を謳うものも形だけ、ちょっとお日様にあてて、あとは機械乾燥という感じの仕上がりのものがほとんどではないかと思うくらい。わざわざ天日干しと謳っている高価なコメをお試しで少量購入してみても、昔のお米の味は味わえなくなりましたので、天日干しの本来の味を覚えておられる方は自分の世代でもごく少数派になっていると思います。

特に玄米で食すと、天日と機械乾燥の差は大きく、何割増かの値段を払ってでもと思うくらいですが、手間やロスを考えると、それでも農家の方にとっては割に合わないのだと思います。

気のせい、と思われるでしょうけれど。

自分の場合、玄米だと無農薬でないと農薬の味を味わっている気分がするのです、で無農薬を指定すると、さらに倍、3倍のお値段に。ここまでいくとさすがに、ちょっと手が出せません。

追熟の不思議と酵母生

果実の中でエチレンによって追熟を起こすタイプに分類されるものには、バナナ、桃、りんご、ナシ、メロン、マンゴー、アボカド、トマト、それにキウイなどがあるようです。アボガド、キウイはちょっとレアかもしれませんが、いずれもコーヒーのフレーバーとして、スペシャリティの世界でもCOEの上位クラスの豆ではかなりの確率で認識されうるものではあります。

こういった香りは果物に含まれる化学物質の分解の過程としてあるところまでは説明することもできるかもしれませんので、そこに酵母の作用が入る余地はないという説明は一面としてあり得ると思っています。

それにしても、どうしてこういう仕組みが存在しているのでしょう。

一般に、植物の果実が良い香りを発するのは動物に食べてもらって、タネをあちこちに拡散してもらうため、と言われています。

ですから追熟を起こすのも、完全に腐敗する前に、一番美味しくて、香り高くて、今が食べどきだぞー、と知らせて早く食べてもらうために有利だったのかもしれません。

そこまで考えると、結構凝った仕組みに思えます。そもそも樹から離れたあとの熟成のプロセスを植物はどうやってコントロールできるというんでしょう。

一方で、動物(この場合は人間含む)の側もむしろ、そういう植物を味わうことによって、自らの味覚や嗅覚を発達させてきたはずです。

ということはこれも卵が先か、鶏が先か、の議論と似通った話になります。

植物の側がなんかこんなのいいかもしんない、たまには世界にこんな香りが漂ったら、自分たちも気持ちいいかも(植物同士がお互いに化学的な成分を介在にしてコミュニケーションしていることはかなり昔に証明されています)、と思って半分趣味で作った成分に、なんか変な匂いがするなあ、と動物たちが寄ってきた。

その後は動物の側もいろいろな香りを嗅ぎ分けることで、さまざまな果実の味を連想できるようになってくる。

ここで、やっぱり不思議なのは酵母なんですけど、どうしてあんたたちは、そこいらの雑菌や納豆菌やらに近い微生物なのに、植物や動物の好む香りの世界に進出してくるのかと。

花も舌もないはずの、酵母菌がなぜ?

前述したように、そういった果実に取りつくことで細胞レベルで直接その成分を感知していたのかもしれません。そうすると、やっぱり酵母菌さえ虜にする魅力がそういったメロンやブドウ由来の揮発性分にあるというのか。

そして、もしそうでなかったとしたら、ですが、その場合は、なおさら、果物の追熟の際に発生する複雑な香りに、まったく酵母が関係していないとは思えなくなります。

おそらくどんな果実であれ、穀物であれ、酵母などの微生物が活動できた方がよりおいしくなるのではないかと思ってしまう究極の理由です。

なにがいいたいかというと、つまり果実のおいしさの原点がむしろ、そういった微生物の側にある可能性も否定できないということです。

なぜなら、たまたま微生物が作った香りの成分に植物の側がいいなあこれと反応して作り始めたという説も十分成立すると思うから、です。

 

酵母や乳酸菌の気持ちになって考えてみる

今日、最近作った無塩みそを初めて試して見ました。

ちょっと特別な風味がするようなそうでもないような。

ただ、やはり日本人としてはご飯のお供をするには少し塩が効いていないと不自然に感じてしまいます。

それと何も添加していないのですが、ほぼ嫌気環境で一般の味噌の製造工程に比べても酸素が少ない条件で作っていますから、アルコールが若干強めです。

それもいろいろな種類のアルコール類が発生している感じがします。

その他、いろいろな有機エステルなど、フルーティなフレ-バーの元が詰まっている感じはそこはかとなくします。

そこに気がつけなければ単なる豆のペーストなのですが、どうせならもう少ししっかり甘ければお菓子代わりになるし、それよか逆にしょっぱい方がおかずにはあう。

不思議なのはどうして、あの小さな酵母たちがこんな成分を作り出しているかなんですよね。

そこで考えてみると、メロンだって、収穫した後、ある程度時間を置いて追熟しないとあの甘さだけでなく、芳香もそんなにしない。

ひょっとしたら、そこには味噌と同じように酵母や乳酸菌などの有益な微生物の働きがあるのかもしれません。

いや、百歩譲って、それが単なる化学物質の分解、生成による芳香であったとしても、人間がかぐわしい、好ましいと思う香りと他の哺乳類やらが好む香りが一致するのは同じ動物とおもえば、ありえるとしても、なぜ小さな酵母たちの発生する芳香が人間の好みと一致するのか、そのことを考えると本当にちょっぴり神秘的な気持ちにさえなります。

これは一つの仮説ではありますが、考えられるのは一つは、穀物や豆、果物などの人間の食べ物が熟して美味しくなる過程でかならずといっていいほど、酵母などの微生物が重要な役割をしているか。もうそうでなかったとしても、微生物もメロンやブドウの芳香を相当、好んでいるんではないかということです。

つまりこういうことです、酵母の仲間がたまたまメロンにくっついていたら、とてもいい香りがしてきた、気持ちいいから。これを是非作ってみようと思うようになって、なんとか頑張って、少量だけれども、作れるようになった。たまたまある酵母のグループはぶどうについていて、そこから離れた環境に移った時、やはりあのブドウのフレーバーがないと気持ち悪い、生きている心地がしないなあと思って、自分で作れるようになってしまった。そういうことがあったのかもしれない。

酵母は何も自然の摂理に従って、仕方なく、芳香成分をつくらされているのではなくて、むしろ好んで、自ら進んでメロンやらブドウの香りを作り出して、振りまいて、喜んだり、楽しんだり、しているのではないでしょうか。

たとえば、美味しい日本酒を作り出す酵母の中にはよっぱらってくだを巻いてばかりの連中もそれなりにいて、時には悪酔いの原因にもなるでしょうけど、酵母たちも、酒の中で溺れて、ハイになったり、たまには宴会して騒ぎながら、かもしれませんけれど、昼夜分かたず、一生懸命、せっせとアルコールやら芳香成分を生成している。あるものはメロンが好きだから、ちょっと片手間でメロンの風のフレーバー担当。あるグループは巨峰の味、所変わればチョコレートの匂い、あるいはパイナップル、マンゴー、飽きたらトロピカルフルーツ風、そんな感じで、発酵の原料や環境が変わるに合わせてそのときどきでいろいろなフレーバーを副産物として生成しながら、酵母生を楽しんでいる。なんてのを勝手に想像してしまいます。

とにかく、微生物のような小さな生き物の場合、少しでも自分の生存に有利になる条件を周りに作り出して、集団として生き残っていこうとするはずですので、彼らの生成する芳香成分が、彼ら自身にとってまったく無意味なものではないはずなのです。

ということは、です。

たとえばフルーティなお酒やおいしいヨーグルトをつくってくれる酵母や乳酸菌などを選んだりすることで、人間は、より自分達と好みが近い、あるいは趣味が近い微生物、とりわけ酵母類とお近づきになり、共生してきたわけです。

そのことはある意味、酵母や乳酸菌などの微生物は人間社会の食物生産のシステムの中で共存することで進化してきたとも言えると思います。

つまり犬や猫が単なるペットという枠に収められないくらいに、今では人類にとってかけがえのない存在になっていること以上に、酵母たちや乳酸菌は人間の食生活にとって大事なパートナーであるかもしれないのです。

ということは、いかにこれらの微生物を付き合ってゆくかが、美味しいコーヒーを生み出す際にも重要な鍵となる、といえるのではないでしょうか。

コージ、コウジ、こうじ

今、部屋の中になんともいえない酒饅頭を蒸したみたいな、上等のふかふかのアンマンか肉まん(豚まん)を蒸したみたいな、それとも手作りパンの発酵中みたいな不思議な香りが立ち込めています。

標準の倍の時間がかかってしまいましたが、やっとこさ麹の出麹を迎えました。

(麹の発酵する香りは、俗に栗の香り、とかいわれていますけど、自分は栗の花の香りがいいとは思わないし、むしろカビ臭く感じる瞬間が多くて納得できなかったのですけれど、道具を片付けた後は本当に不思議な香りがしてきました。)

こうじといえば、仲元工事とか、兜甲児とか連想してしまう世代ですが、そういえば銀座に、そんな名前の老舗の喫茶店があったような。

同じ麹といっても今回のように玄米でやるのはかなり勝手が違って標準的な作業手順はあまり当てはまりません。それでも、やはり専用の箱を使うとやりやすい。

なんのためにこんなことをしているかといいますと、味噌やら醤油やら自給自足しようとしているのもちょっとはあるんですが、もちろん、というかコーヒーに応用するためです。

コーヒー豆に麹を振りかけるというアイデアはすでに数年前にオスロかどっかの大会で披露されていて、アイデア自体はすでに知られています。もう随分前から、やってみようと構想を持っていたものの、実際にこれを実行してみようかと思いついたちょうどその頃、ネットで見つけたので、思いついたのはどっちが先かといえば、おそらくそちらなんですが、その後、音沙汰なし。

せっかくのスペシャルティクラスの豆を台無しにしかねないところがありますから、お金さえ積めばいい豆が比較的手軽に入手できる現在では無用かつ。豆本来の魅力を引き出すという面でもある意味、邪道感満載の技術です。

かといって、いわゆるクズ豆を再生しようというコンセプトなら、あまりに手間がかかりすぎて、あまり意味がない。

でも、ちょっと思うところがあって、いろいろな豆やらなんやら麹にしてみようと思っています。

コーヒー豆はさすがにいきなり取り組むにはハードルが高いんですよね。

コーヒー豆の場合、水につけただけで、もう別物になってしまうところがある。

それでも麹によるかよらないかは別としても、なんらかの発酵技術を精製に生かしてゆくのは日本という国の条件の中ではたんに差別化を図るということにとどまらない意味があると思っています。

この手の発酵技術は東南アジアやアフリカも含めて全世界に普遍的にあるものですが、古来、日本人が磨いてきたものでもあるので、まだまだ可能性はたくさんあるはず。

21世紀後半にはスペシャルティコーヒーの一大産地になっているかもしれない日本の将来のために必須の技術ではないかとさえ思っているのです。