The Coffee Roaster House

just around five pounds retreat

ちょっと名古屋の水を試したり

何度かドリップバッグをお送りしている方にお願いして、名古屋の水を送っていただきました。

中京方面に遠征した際も、名古屋市周辺の水や空気は都市の規模からすると、信じられないくらい良いと思っていたのですが、送っていただいた水で随分前に作成した何の変哲も無いブラジルのドリップバッグを淹れてみて、意外なほどユニークなフレーバーに一瞬。目が点に。たまたまかもと思いつつ。

やはり水の差は軽視できそうにありません。

久しぶりの遠征

ここのところ、あまり出かける機会がありませんでしたが、ちょっと出かける用事がありまして、関門海峡を渡りました。

本州の道は本当に走りやすい。そして、水も空気もまた違うんですなあ、これが。

深煎りで評判のお店に入って一服。と言ってもモカを3杯ほど。

凝りに凝った店内と店主のこだわりの抽出。水は近くの湧水を持ってきているそうで、お冷でのんでもなかなかのもの。クリアで癖がない。

水単体でも甘く感じる田川の井戸水とか、若干の癖を感じることのある筑豊の水。福岡市近辺の名水と言われる水にくらべると、水そのものに主張がない。本当に面白いと思いました。

 

続x8 おいしさの基準

おそらく、ほとんどの人にとって、おいしい、という言葉は、幼少期から食事を共にしてきた家族との団らんの記憶とともにあります。

よく、自分はなんでも美味しく感じてしまうから、食べ物の味などよくわからない、とか珈琲の味なんてわからないとおっしゃる方がいらっしゃいますが、それは幼い頃の家庭環境がほんとうに恵まれていて、あまりに幸せで、暖かくて、楽しくて、そのにぎやかな場の雰囲気とともに食事をするのが当たり前で、実際の飲食の味を遥かに上回る幸福が、美味しいという言葉とともにあったからでしょう。

それは日々生かされていることの幸福を素直に肯定できる気持ちとセットのものであって、決して卑下するものでなく、むしろ誇るべきことかもしれません。

そのような方にとっても、様々な味覚を峻別する感覚が与えられていないかといえば、そういうわけではないのです。ただ、その上に乗っかっているものが大きいというだけです。

かつて、通りを挟んで向かいに住んでおられる大家さんが夕方遅くいきなりシャッターを叩いて、あなた、こんな珈琲を安売りしちゃだめよ、といいにきてくださったことがありました。

その時の焙煎ですが、ちょっと一般よりいいモカをたまたまダブル焙煎したのが瓢箪から駒でうまい具合に煎れたものをシングルでお出ししたものだったのですが、その時、ちょうど大家さんの長女一家が帰省されていたこともあって、程よいモカの香りにびっくりされたようです。これなんて、娘さん一家がいらして一緒にその香りを体験したからこそ、よりはっきり、お分けしたものの価値が伝わったということもあると思いますが、やはり、大家さん自身が自分の嗅覚で感じ取ったからそこ、実感したからこそ、そこまでして、伝えてきてくだっさったのでしょう。

普段は、私のように珈琲の味もロクにわからない人にはなんでもいいわよとか、平気でおっしゃる方でした。

もちろん、その新しい感覚が実際に自分のものとして定着するにはそれなりに意識して取り組む必要があるかもしれませんが、人はそうやってお互いに体験を共有し合うことで、一人では峻別困難なものさえも味わうことができるのだと思います。

 

続x7 おいしさの基準

もし、ひとりひとりの人間が無自覚のうちに記憶の奥底の原体験に引きずられて現実の世界をありのままに感じれなくなっているとしたら。

同じものを味わっても。お互いに違うことを感じているわけで、永遠にわかり合えない事になってしまいかねません。

実際、同じ物事に触れても感じ方は十人十色というより、百人百様、70億いれば70億、90億人いれば90億の感じ方が存在することになります。

おいしさに基準などありえないのではないか。

あるいは、そう思われるかもしれません。

しかし、あるがままに世界を感じる力が、人間に乏しかったとしても、引き換えに獲得したものがあるはずです。

それはやはり言葉の中に秘められているでしょう。

そのことについて、少し考えてみたいと思います。

例えば、初めて言葉を覚えた幼児が、おいちい、と口にするとき。

最初は単に親や兄弟の真似をしている可能性はあるかもしれません。

あるいは、幼子の発語を喜ぶ両親の姿に応えるために、ただ反復しているだけかもしれません。

それはつまり、周囲の家族と発語することでやり取りする、ある種のエネルギーの交流をすることが目的であって、言葉そのものに大きな意味は込められていないかもしれません。

しかし、そこからさらに発達して、1語だけのおいしい、でなくて、ママ、おいしい、であったり、おいしいねえ。おいしかった。といった表現ができるようになったとしたら、どうでしょう?

この言葉が、ママの料理はおいしいね。とか、今日のスーパーの惣菜は美味しいね、とか、ママの選んでくるものはいつもおいしいねえ。といった意味になるのは、もう少し年長さんになってからではないでしょうか?

では最初に、たとえばママ、おいしい、といえたとき、そこにはどういった意味が込められているでしょうか?

それはたとえば。素材そのものの美味しさなのでしょうか? 

しかし、この時代の子供においしいとうれしいの区別が果たしてつくでしょうか?

多分まだまだではないかと思われます。

でも、おそらく、ひとついえることがあります。

それは、他者の同意、もしくは共感を求めていること。

ママ、おいしい(ね)といえる子供はおそらく、一緒に食卓を囲む家族の間で交わされる、今日のご飯は美味しいね、という雰囲気や空気と一緒に、その言葉を覚えたのです。しかしそれは単なる単語の記憶ではない。

おいしいとは、一緒に食卓を囲むことのできる、うれしさ、楽しさ、幸せな空気がパッケージになったエネルギーとして子供の心に刻まれていった先に、それを再確認するような意味合いで自然に生み出される言葉です。

つまり、それは他者がいて初めて生み出される言葉であり、エネルギーであり、場を表す象徴としての記号なのです。

続x6 おいしさの基準 言葉以前の世界

人間は言葉に縛られて、あるがままの世界を感じることが不可能に近く、難しくなっているとしても、かつては、言葉に縛られることなく、ありとあらゆる世界の刺激を受け止めていた時代、幼少期はあったはずです。

ですから、味覚に対しても、野生動物と同じような原体験としての記憶を本来多く持っていてもおかしくありません。

それは言語化する以前の感情のほとばしりや、イメージのようなダイレクトで、ある種のエネルギッシュな情動を伴った記憶として心深くに刻まれている。それらが核となって個人としての味覚の根幹たる基準として作用している可能性があります。

しかし人は、ほとんどの場合、言葉を操るようになる以前について明確な記憶を保つことはできません。

多くの場合、特別に印象的な場面を記憶に残すことはあっても、それ以外のことを思い出せるケースはかなり稀です。

それはやはり、言語を使って、他者とやりとりをすることが、記憶のベースを作るということのほかに、自分自身の中で反芻することが記憶を持続させるには必要だからでしょう。

あの時、あんなことがあったなあと語り合ったり、分かち合ったり、思い返すことが、長期に 渡る記憶として定着するにはおそらく必須に近い条件なのです。

とはいえ、表面意識に上らないだけで、言葉を覚える以前の記憶はおそらく人間の深い意識の底で常に影響を与えていて、そこを基準として、物事を特に、味覚などの原始的な感覚については、認識しているはずです。ということは人間はかなりのところ、というかほとんどの瞬間、過去を基準として、あるいは過去の記憶に引きずられて、物事を味わっているということが言えます。

無自覚のうちに、そういった原初の体験をベースにすることでしか世界を認知できないとしたら、人は、うっかりすると、過去に執われたまま、今の現実を見たり、感じることができない罠に嵌ってしまっていることになります。

高度な知能を持つがゆえに、常に過去に生きている、あるいは目の前にない何かや未来を空想したり、幻想に惑わされて、現実の目の前にあるもののテイストをあるがままに感じることができない。

人間とはある意味、過去に縛られた世界の中で生きざるを得ない、この世界で最も不自由な存在とさえ言えるのかもしれないのです。

 

続 美味しさの基準x5 後編

大脳が単純な情報の保管庫ではないことは明らかです。

ただ、脳の働きについてはまだわかっていないことも多い。ですからまず、わかっていることから話を始めようと思います。

ここでいう情報とは、ひとつは自分自身の過去の体験から蓄積されたもの。

これは過去の実体験がベースであるために極めて個人的なものではあるとしても、他者の介入を許さない当人にとっては絶対的な揺るぎない評価軸として機能する可能性の高いものです。

もう一つは、周囲の人々、他者との関わり、コミニュケーションからもたらされた情報です。

人間の脳はそれらの情報を駆使して判断する仕組みが備わっているがゆえに機能も豊富かもしれませんが、今、目の前にある珈琲の味を的確に評価するとなったとき、かえって大きな障害となるのです。

仮に同じものであっても、有名ブランドのカップで提供される場合と100円ショップで売られているカップで提供される場合で大きく評価が変わったりということは、むしろあって当たり前です。そういった複雑な情報を処理する働き自体が人間の脳の特質であり、ある意味、人間存在の根源的な性質の一部といっていいのですから、むしろそうでなければなりません。

世間の人はほんとうの味をわかっていないと、嘆いたり、豪語することは、自分自身が野生動物並みの感性しかないと白状しているか、野生動物と同じレベルで物事を判断するよう、周囲に強いているのと同じです。

たとえば、かつて今のインドとネパールの国境あたりで覚者と呼ばれた釈迦のような人物が宇宙即我の境地に達して、珈琲を口にすれば、たしかにその一杯が生まれるまでの宇宙の悠久の歴史や万物の生々流転の過程、産地の人々の栽培の苦労や焙煎の発達の歴史、抽出したバリスタの様々な苦労や思い、それらあらゆることを一瞬にして感じ取って、提供してくれた人や周囲の人々に、ふさわしいことばでねぎらったり、感謝の言葉を述べられるかもしれません。

でも、もし、その味を具体的に表現して、伝えようとなったら、どうやっても、日本語なら、日本語の、英語なら英語の、その文化圏の言葉で表現できる範囲に限定して、何らかの表現をすることになります。となると、そこで、それぞれの文化圏におけるさまざま前提条件や背景を相応程度背負った表現しかできなくなってしまいます。

つまり言葉にすることで、個人的な体験は他者と共有されうる情報として、固定される代わりに、その言葉を生じる文化や集団の前提から離れられなくなって、現実から遊離しはじめてしまうのです。

言葉を使う人間だからできること、でもそれだから、純粋な体験を味わうというのは、言葉を持っているからこそ、困難でもあるのです。

 

続x5 おいしさの基準 前編

ここまでのまとめ。ひとことでいえば、人間は自分の体に取り込んで良い。

と思えるものを、おいしいと感じるようにできている。ということです。

(ひとりひとりによって、その判断の基準は異なるわけですが)

さて、人間は視覚優位で物事を認知するとも言われています。

果たして本当でしょうか?

いわゆる五感の中で言えばもっとも発達しているのは視覚と言えるかもしれません

しかし、その視覚さえあの小さな鷹や鳶の目の視力と比べればかなり劣るようです。

ひょっとしたら、カラスにも劣るかもしれません。カラスの目は人間が知覚できない幅広い波長の光を感じていて、真っ黒に見えるカラスの体表面もカラス自身には極彩色に見えているのではないかとさえ言われています。

屋外で、あるいは野生の世界でしのぎを削っている動物たちが人間以上の感覚を育んでいるのは自然なこととはいえ、この点では人間の視覚は高等とはとてもいえないものです。

たとえば、犬は人間の数万倍にも及ぶ感度の嗅覚を持っているといわれていますが、人間と比べれば弱視といえるくらい、視力が弱い。これはおそらく狼のように夜行性で行動していた時代の名残で、暗闇で狩りをするのに適していたことから、嗅覚を優先して発達させていったからでしょう。脳は基本複数のことを同時に処理できるようにできていないそうですから、(だからこそ、集団で行動することは多くの生物にとって意義があるのでしょう)大事な一つの感覚を選択的に発達させるというのは超音波で自由自在に空を飛べるのに、ほとんど目が見えないこうもりなどもそうで、生き物にとってはおそらく自然なことなのでしょう。

人間の場合、いわゆる五感のどの感覚も動物にくらべれば大したことがないとすれば、人間にはその頼りない嗅覚や視覚の代わりに発達させてきたものがあるはずです。

古くはアリストテレスが人間を社会的動物と称したように、人間は他者と情報交換をすることで、その不自由な感覚を補ってきました。

たとえば、今でも間違って、ニラとスイセンを間違って食用にして中毒を起こす人がいるように、人間の感覚はかなりいい加減なものです。

犬や猫がこの種の間違いを起こすとはとても思えません。

しかし、人間はひどい目にあって九死に一生を得た先人の経験やら知恵を学ぶことで補ってきたのです。その伝承がうまくつながらないと、今でも間違いは起こるわけですが、それでも人類全体としては、スイセンで命を落とす人はほんの僅かで無視できるほどで、何万倍もの感覚は不要なのです。

人間の場合、社会的動物として得た情報を抜きにして、物事を認識したり、知覚するのは、ほぼ不可能といっていいほど、困難なことではないかと、くろちゃまめは思っています。

ほとんど場合、珈琲をイメージする一般的な要件を満たしていれば、銘店の珈琲である、とか好みの焙煎度である、とか、どこどこの産地の豆であるといったことや、いつもの好ましいデザインの袋に入っているとか、大好きな〇〇さんが焙煎した、淹れてくれた珈琲であるとか、そういった要素頼って、おいしいかどうか、つまり自分の体に取り込んでいいか、判断しているのです。

こういった情報から完全に離れて、純粋に珈琲の味を評価することは、原則人間にできることではないということです。

 

 

 

ディスカバリー 初回お試し焙煎 1週間後の評価

実は、まったくカバーせず、空気に触れさせた状態での実質最終評価です。なにしろ、豆の残りはわずかです。この段階になって、特に浅煎り気味の豆からするドライの香りはちょうど中高生時代に店から新鮮な豆をお願いしますといって分けてもらっていた焙煎豆と同じ少し生くさいながらも、果実を思わせる香りです。

ああ、こういうのを煎りたてだーと、ありがたがっていたんだなあと、思いました。

8gなり11gでの抽出は少し意地悪というかいきなり銘店と同じレベルを自分に求めている感じがしてきましたので、使用する豆は12〜15gの範囲で、抽出量は150から160cc 程度でストップウォッチも使わず、準フリースタイルで望みます。

挽目はVARIOの18番で固定とし、あいかわらず三洋産業のスリーフォーの1〜2杯タイプを使用しました。ほぼブラインドでの評価です。(よくみれば豆の形でだいたい判別できてしまいますが)
※この抽出は究極の美味しいコーヒーというよりはドリップバッグにした時のテイストが比較的イメージしやすい状態で安定して評価できることを重視しています

①ブラジル(農園指定) 意外なほどの酸味となんとも言えない生臭さが最後までつきまといます。消去法でこの豆とやっと判別できました。最初のバッチでこれにトライしたのは、あまりにこの豆に対して失礼だったと思いました。というか、単純にもったいない。改めて試してみて、ブラジルらしからぬ?良い豆なのがわかりました。

エチオピア ハラー 売り切れ

ミャンマー 最初のひとくちではほとんど中南米の銘柄と区別がつかないくらいのバランス。しばらくおいておくと、今度は烏龍茶を思わせる風味に若干のスパーシーさを感じて、これは間違いなくアジアンテイスト。ちょっと煎りすぎではあります。

パナマ・ゲシャ(オーロラ農園) 少し余りが出てきました。うっかり78度で抽出してしまって、バランスが悪く、慌てて、熱めのお湯でうめました。抽出自体も濃すぎました。10〜12gで88〜91度くらいの抽出でもよかったかもしれません。
パナマらしさ、ゲシャらしさ、確かに表現できていますが、もう少し華やかに決めたいところ。香りに関しては2日めの夕方がピークでした。 パナマは銘柄を変えて、いつ日かリベンジしたいところ。

コスタリカ  (農園指定ナチュラル)いい豆なのがわかりますが、焙煎は煎りすぎのようでもあり、煎りすぎないようでもあり、要するに豆に均等にカロリーがかかっていないということでしょう。投入温度が高すぎたのか。それでも、ホンジェラスのように積極的にまた試してみようと思うほどではありません。

エチオピア グジ 対消滅 クロップは違いますが、再チャレンジのための入荷待ち

ホンジュラス   セレクトマウンテン 素晴らしい、珈琲の果実味がこんなにストレートに感じられるとは、しかもこれ、ほとんどスタンダードに毛が生えたか、生えないかのグレードの豆なんですが、少しスクリーンがばらつくぐらいで、みばえも悪くない。いろいろなお店がホンジェラスを扱いたくなるのはわかりますね。ただ、産地ならでわの特徴というと、ちょっと弱いかな。しかし中南米の中ではとってもお得感あります。再チャレンジ予定しております。

全体に排気が少々不適切な感じがありますが、おそらく100gの焙煎で、ダンパー操作のみで回避するのは難しそうです。もう少し色々やってみて対策をたてようかと思っています。

ディスカバリー お試し焙煎 Part2 一週間後の評価

この分は半端に余った豆で煎った余興ですが、一応。再評価。

ベトナムとパプアの怪しいブレンド シティ+ 130g

時間が経つとそれなりのバランスで、なんとかいけますが、さすがにもう一回試してみようと思うようなものにはなりませんでした。

②とあるブラジル シティ++ 130g

濃く入れすぎてしまった。最初は判別できず。後味のクリーミーさの中に特有のフレーバーを見つけ、ブラジルと特定。飲みやすくはなっていますが、やはりこの豆は二度と扱わないだろうと思います。

パプアニューギニア 100g ミディアム

思わず、エンバリ、と口にしてしまうくらい、パプアニューギニアらしくないほど、ちょっとしたさりあげない個性が、いわばアジアのエスプリ、みたいな。ブルマンは言いすぎですが、血統は隠せない。ジャマイカの苗木の末裔というだけあります。あっぱれ、ニューギニアでした。

ディスカバリー③ 続 焙煎機としてのセカンドインプレッション

ディスカバリーの焙煎機としての生産性は、品質面を抜きにして、単純に量だけで考えても、実質、煎ったろうを凌駕し、品質面を考慮すれば1キロにさえ肉薄する可能性があります。

なぜかといいますと、それは排気機能のちがいにあります。

煎ったろうには排気を調製する機能がありません。さらに加えて、蓄熱性も乏しい。これは良くも悪くも、手網や手回しに近い焙煎ができる可能性も含んでいますが、広く一般に豆売する際に使われている排気を調整する機能が備わっている一般の業務用焙煎機で提供される焙煎豆と同等の品質は期待できないということになります。

もちろん、ハマった場合、他で得られない独自の魅力を作り出せる可能性は大いにあるものの、どうしても、日持ちがしにくかったり、あるいは、独特の癖が出やすかったり、焙煎が安定しなかったり、抽出方法を選んだり、難しくなったりといったことがあります。

その点、ディスカバリーは独立排気であることもあり、排気機能については1キロ、3キロ、5キロの標準タイプよりも優れていると言えるかもしれません。その上、かならずしも煙突は必要ないので、外気や天候の変化に影響されにくいなどメリットは多い。

他社のディスカバリーと同等の焙煎量を持つ機械との比較での弱点は排気ファンの回転数を制御できないところです。今では、インバーターで風量を変えることができるものが多くなっていますから。

ただし、ディスカバリーの場合、必ずしも必要がない。

特にダンパーの操作は3キロよりも操作しやすく、わかりやすい。吸気温度の変化が温度センサの表示にダイレクトに反映されやすいからです。また仮に排気に不足があったとしても、排気口の先に少し工作して、ドラフト効果を補強する、煙突代わりの配管をつけたりするのは、かんたんにできるので、インバータの世話になる必要は皆無に近い。

その点、設置環境によっては排気不足を指摘される3キロよりも優れていると思います。

あえて、弱点をいうとすれば、それは思いの外、安定していること。

昔から、じゃじゃ馬と言われた1キロで冒険したときの、ちょっとやんちゃな感じの焙煎は、狙っても難しいかもしれません。

そういう意味では1キロには、1キロしかない存在意義があるといえます。